この曲の歌詞(作詞=秋元康)で僕が一番好きなのは、次の部分。
君と偶然に現役で大学に入った同級生のほとんどは就職し、いよいよ古い知人と疎遠になってきたこの頃。
会った街角で
昔話することもなく
すれ違ったね
ここに歌われている場面で、主人公が「君」と「昔話することもなく」、二言三言ぎこちない挨拶を交わしただけで「すれ違っ」てしまったのは、言いたいことが無かったからではなくて、逆に伝えるべき思いがたくさんありすぎて、結局ひとつも形にできなかったからだろう。
つまり、結果として出てきた言葉の量と実際の“思いの丈”は比例しないということ。これだけなら、改めて言うまでもない、当然のこと。
ただ、これと同じ道理で、本当のところは複雑で微妙な思いを具体的な形にすることを求められた時、人は、適当な表現を見繕ってその場をしのいでしまうということがある。そうして出てきた言葉は正確でない(imprecise)ばかりか、誠実さ(truthfulness)に欠けている。しかも厄介なのは、この誠実さの欠如に、発言した本人でさえも気がつかないことがある、ということだ。
先週日曜日の秋葉原無差別殺傷事件の犯人は、取り調べのなかで「世の中が嫌になった。生活に疲れた」というようなことを言って犯行に至った動機を説明しているという。また、犯行前、彼は携帯サイトの掲示板に、自分には無差別殺人犯の「誰でもよかった」という発言が「わかる気がする」とも書き込んでいる。
多くの人は、彼のこの“言葉”をみて、「何と言うわがままな動機だろう、疲れて、物事がうまくいかず、世の中が嫌になることなんて、誰にでもあることではないか」と言って批判する。また、「誰でもよかった」という“言葉”については“おぞましい不条理さ”を指摘して、それは“普通の”人間にはとても理解できない、と言う。
しかし、彼の供述に見られる“言葉”、彼が掲示板に残した“言葉”、これらが彼の考えていること、感じていることを正確に言い表しているという保証はもちろんどこにもない。
犯人の言葉が“嘘、偽り”かもしれない、という次元のことではない。きっと、「世の中が嫌になった。生活に疲れた」とか、というのは、彼にとっても“本当”のことだろうし、トラックで歩行者天国に突っ込んで、ナイフを振り回して走り回っていた時は、“本当”に「誰でもよかった」のだろう。
ところが、少し考えればわかるように、「世の中が嫌になった」とか「生活に疲れた」とかいう表現は至極漠然としたものだ。「世の中」とか「生活」といった言葉の指示範囲はきわめて曖昧で不明瞭であって、ほとんど意味がないといってもいいくらいだ。だいたい殺人の動機なんて、正確に言葉で表せるような単純なものではないだろう。
「誰でもよかった」という言葉も、そういってしまえばそう思えるという程度のもので、僕の印象では、彼にとっては、“殺すのは誰でもよかった”というよりは“誰を殺していいかわからなかった”という方が正確ではないかと思う。
今回の事件を「一種の「自爆テロ」」と呼ぶ東浩樹は、
容疑者は彼の苦しみを大人の言葉で語らなかったかもしれない。怒りの対象も曖昧(あいまい)だったかもしれない。彼が凶行の現場として秋葉原を選んだのは、おそらくはその曖昧さのためだ。と書いている(朝日新聞への寄稿)が、これは明敏な洞察である。
つまり、犯人が不幸なのは、憎しみという人間として実に基本的な感情でさえ具体的に持つことができず、またそのような感情がついにわき上がってきた時でさえ、それを向ける対象(家族・友人・教師・ネットユーザなど)を見つけることができなかったということだ。
彼のものと見られている書き込みを読む(ここやここなどを参照)と、“対話”ということに対する彼の鬱屈したルサンチマンが浮かび上がってくる。彼は「人とふれあう」ということを“閉ざされたもの”あるいは“絶望的な”ものとしてみている一方で、“あきらめきれないもの”あるいは“希望的な”ものとしてもみているように思える。だから、誰かに話しかけているようで独り言のような、特殊な文体になる。
もっとも、一番大切なことは、対話者を見いだすということだけでなく、(超越的シニフィエとしての)“完璧な対話者”などというものは存在しないということを対話という行為の中で体験することなのだが、彼はこの問題を問題として考えることができる前に事件を起こしてしまった。
インターネット掲示板というメディアの二重の危険性は、ここにあるといってもよいかもしれない。つまり、ひとつには、この場所におけるコミニュケーションは、依存性の高さに反して陳腐な対話“もどき”に終始してしまうこと、そしてもうひとつには、それが“完璧な対話者”を求める弱さからの願望を間違った方向に助長してしまうこと。
もちろん、言葉そのものの意味と行為としての発話の意味の乖離は、一部の人間の問題ではない。言葉が人間を定めるものである限りにおいて、これは極めて人間的な問題である。
例えば、多くの人が今回のような事件をみて「犠牲者のご冥福をお祈りいたします」と綴っている。しかし、日本人のほとんどは、死後の世界も信じていないし、神様も信じていないのだから、彼らにとっては本当は「冥福」などというものはナンセンスなはずだし、祈りを向ける対象も存在しないはずだ。
それでもなぜこの言葉が頻繁に発話されるのか。それは、このような事件に対しては適切な応答などというものは存在しないのにも関わらず、何かを言わなければいけないという抑えられない衝動があるからである。
ある意味では、言葉になったものがすべてである。ところが、当然ながら、言葉にならなかったものには、存在というステータスすらあたえられない。“言葉以前の意志”とは、ある意味ではナンセンスであり、それは忘れられた「忘れもの」であろう。先に言った「言葉そのものの意味と行為としての発話の意味の乖離」の問題は、この忘れものの影を見せるという点で、重大な問題である。
言葉がすべてではないけれども、すべてであるかのように使わないと日常生活をやっていけないような感じがしていたので、そうだなあーとうなずきながら読んでしまいました。乖離、のとこです。
ところで、あさってTOEFL-iBTを受けてきます。初めてというのもありナーバスです(笑)
ありがとう。
ところが、もちろん、乖離ということが成り立つためには、言葉の反対側にある項、つまり意志とか意図とか、端的にいえば「こころ」というものが前提されてなきゃいけない。この前提自体そもそも正当化できるのか、っていうツッコミが心の哲学者からすぐにでてくる。
そもそも、この前提が(科学的、形而上学的あるいは認識論的には)正当化できないということは、秋葉原の事件の犯人の「誰でもよかった」という言葉が如実に示しているのではないか? つまり、彼は携帯電話のちっぽけなディスプレイに表示される断片的な言葉の奥に「他者(人間)」というものを感じることができなかった。そこには「誰もいない」のだから、「誰を殺していいか」わかるわけがない。本文でも書いた通り、「誰でもよかった」というのは「誰を殺していいかわからなかった」ということの“誤訳”ではないだろうか?
…と突っ込まれたとしたら、僕としては「科学的、形而上学的あるいは認識論的」な正当化がすべてではない、と言って返答をはじめるしかないだろうね。他にどんなやりかたで、「他者のこころ」を正当化するか?
簡単に言うと、なにしろ「こころ」は言語に現れているのだから、“言語そのもの”という観点から正当化すればよい。つまり、言語的なコミニュケーションになんらかの価値論を持ち込むということだ。ところが、当たり前だけど、こうすると、図らずも言語哲学が倫理学にはみ出してしまう…
“チラ裏”な独り言申し訳ないです(笑)。TOEFL iBT、結果・感想など詳細に聞きたいのでよろしく。Good luck!
素人の僕は、直感で答えを出してみて、頭の中でそれの検証のようなことをしてみる、みたいなやり方しかできないです。
心にとどめておいて、ずっと考え続けたいと思います。
TOEFLiBTについての感想としては、まず到着順にテスト開始なので普段のテストと若干感覚が違いました。有名ですが。誰かがしゃべってるときにリーディングとかやらないといけないこともあり、若干邪魔でした。これも有名ですが。
あとはリーディングについては、対策に使っていた問題集の平均的分量よりも分量が多かったと感じました。問題集では大問一問につき4パラグラフぐらいが主だったのに、本番ではどれも5パラグラフでした。なので時間に余裕がなかったという印象です。あと、問題数も13問×3だと思っていたのですが、たしか14問×3でした。だからなおさら時間がたりないと感じました。
リスニングは、ちゃんと聞けたところはちゃんと答えられた、という感じなので、リーディングに比べればあんまり落ち込んでないです。インターネット配信だからか音質は明らかに良くはないと思いましたが、特に問題はなかったです。
スピーキングは、対策をそれなりにしておいたのでそれなりにできました。こっちは逆に、意外と焦らず済みました。対策のおかげで第何問では何を聞かれるか、が大体分かっていたので、ということだと思います。たぶん受けた人の大半がそういう対策はしているでしょうが。。。
ライティングは申し分ないものが書けたと思います。いや、申し訳ないものかな?笑
うまくかけたとは思いませんが、ETS的にツッコミどころはないだろう、的な物をかけました。
全体としては、心理学系のトピックがなぜか多くて、そこはラッキーでした。アメリカ史とかアメリカ地理とかやられると若干やりづらいので・・・笑。
成る程。詳細な感想、ありがとう。手応えはあったみたいだね。相当いい点いったんじゃない?
やはり純粋な英語の力ではない「戦略」的な要素(出題傾向分析とフォーマットに応じた対策)もかなり大きいと思うんだけど、そういう風に感じた? いずれにしても、「努力して勉強できるか」は問われるわけだから、戦略でいい点が取れるテストでもかまわんのだけど、世の中にはテストを受けるのがあまりうまくない人もいるから、そういう人達にとっては難しいよねぇ。
床に積み上げられてる本を収納するための本棚を注文したので、今度家に飯でも食べに来て下さい(笑)。
本文中で引用している東浩樹氏の文章、asahi.comへのリンクはすでに切れていますが、氏のブログに全文が転載されています。以下のアドレスからどうぞ。
http://www.hirokiazuma.com/archives/000422.html
東氏は産經新聞にも寄稿していて、こちらはアサヒのより少し長く、書かれたのも数日後です。以下のアドレスから読めますが、その内リンク切れになるかもしれません。
http://sankei.jp.msn.com/affairs/crime/080621/crm0806210821004-n1.htm
えーと、自信はないですが、そう期待したいです。
何度も受けたくはないので。。。
戦略的な要素はスピーキングで一番強いなと思います。
次いでライティングかなと、思います。
リーディングやリスニングは戦略と同時に、語彙がものをいうなあという印象です。いかに言葉の意味を理解しているかという。
ありがとうございます。いかせて頂きます。