潔いということが果たしてどういうことなのかは傍に置くとしても、生き続けることが潔くないというような含蓄には違和感を覚えざるを得ない。潔い、潔くない、というなら、赦すこともまた潔いのではないか? 頑なに死を求める考え方こそ潔くないのではないか?
それに、終身刑と死刑と、どちらがより希望がある(またはない)と言えるだろう? ある種の宗教的な信仰を持っていなければ、もともと人間の生に希望なんて微塵もない。どこを探してもない。永遠に生きるのも明日死ぬのも同じである。
死刑というのは、罪と罰を量化して、死んでも償いきれないとされる罪に与えられる罰という意味では合理的だが、これは同時に原始的な考え方でもあると思う。合理的であることが発達した人間の脳の思考能力に起因することなら、合理性というのは動物的、生物学的なことである。死刑がなければ、被害者側に納得がいかない、というが、それは“合理的に考えて”納得がいかない、ということだ。
しかし、この意味では合理性というのはほとんど絶望的だ。非人間的であるとさえいえる。人間は生物的な記述以上のなにかであるという(宗教的な)考え方だとそういう結論になる。人が人を裁く、という考えは、この考え方では野蛮で、真の意味で人間的でない。人が赦すことができる、ということの方がずっと希望があることではないか?
こう書いているのは、死刑廃止論を述べるためではなくて(制度としての死刑に関して、僕は何の意見も持っていない)、終身刑は希望のない刑であるという法務大臣の前提に疑いを投げかけるためである。
実際に自分の恋人や子どもが殺されたとしたらどう思うか? きっと、死刑でも足りないと思うだろう。自分の手で犯人を殺したいと思うのではないか? それは、犯人に同じ痛みを味わわせてやりたい、というような低次元の考え方ではなくて、その位の感情がないと愛というものが成り立たないと考えるからだ。その証拠に、まったく逆の反応も同様に理解可能である。これは中原中也の考えである。
愛するものが死んだ時には、ただ、これは、誰かを愛することができる、という前提があっての話で、もちろん僕にはそんなことはできない。恋人もいないし、子どももいない。
自殺しなけあなりません。
愛するものが死んだ時には、
それより他に、方法がない。
けれどもそれでも、業(ごふ)(?)が深くて、
なほもながらふことともなつたら、
奉仕の気持に、なることなんです。
奉仕の気持に、なることなんです。
愛するものは、死んだのですから、
たしかにそれは、死んだのですから、
もはやどうにも、ならぬのですから、
そのもののために、そのもののために、
奉仕の気持に、ならなけあならない。
奉仕の気持に、ならなけあならない。
(「春日狂想」より)
罪人を赦す希望がないというのは、命を投げ出す勇気がない、ということと同じであることがわかる。
やっぱり、どうしても、信仰が必要になる。僕の考えではそういうことになる。信仰は、不可能を可能にするのではなくて、不可能を不可能なままにして、それを生きることを可能にする。ヴィトゲンシュタインのいう「世界の違い」とは、そういうことであると思う。
僕は即興で感想を言うのがすごく苦手なので(ご存知の通り)、なんとも書けないですが、いろんなひとに必要なテーマだと思いました。
お父さん、お大事にしてくださいね。
女の子に告白する時とか、詩を書いているならこういう矛盾も臆せず書ける(告白もしないし詩も書かないけど・笑)。問題は、それをどうやって哲学者でも理解できるように言うかってことなんだなぁ。
実際、こんなことはもうレヴィナス、デリダ、ドゥルーズなんかがとっくに言っていると思うのだが、こういう物言いは「ことば遊び」とか「戯言」として拒否される傾向にある。
不可能を生きる、というアイディアを最初にしっかり提出したのはイエスだと思う。それを逆の形で復興したのが、僕の考え(直感)ではニーチェ。