08/09/2008

『哲学の歴史 第11巻 論理・数学・言語』 飯田隆(責任編集)

去年の4月に刊行が始まり、今年の4月に本編全12巻が完結した、中央公論社の“本格的”な西洋哲学史(公式ページ)。一般向けの哲学シリーズとしては類を見ない壮大な企画で、執筆者も各分野の第一線で働いている人ばかり。装丁も整っていて、気合いが感じられます(欧文名が何故か仏語で『Histoire de la philosophie』なのがちょっとひっかかるけど)。

個人的に興味があるのは第7、10、11、12巻あたり。でも今回読んだのは第11巻の一部、飯田隆さんが執筆している部分を中心に、150ページくらい。

巻頭の「総論」はなぜかソーカル事件への言及で始まって「ん?」と一瞬思うのですが、結局は20世紀のいわゆる英米分析哲学というのは科学の関係においてまずは理解される、ということで納得。ものすごーく大雑把に言うと、科学的基礎ということを考えていたら、科学の基礎の基礎、つまり論理や言語に関する問題に行き着いた、ということ。

こう考えると、いわゆるネオ・カンティアニズムという文脈における、非ユークリッド幾何学の発見以降のカント哲学の批判的見当を通じて、科学の基礎には実は言葉の問題があった、という認識に辿り着いた…という物語は、まるでカントの中心を探りに探ってアリストテレスを掘り当てた、というような感じで、やはりこの二人の哲学的怪物の偉大さを再認識する次第です。

おもしろかったのは、科学の哲学や論理言語哲学の影で不当な扱いを受けてきたとされる価値理論(value theory)、例えば倫理や美学に関する次の一言。
分析的伝統の哲学の中で科学主義的傾向のために、長いこと不当な扱いをされてきた主題は、倫理や美と言った価値についての哲学である。この分野にとって不幸だったことは、それが、意味の検証理論と言う、言語の働きについての極めて単純化されたモデルを、外から押しつけられたことにある。このモデルを信奉していた論理実証主義者によれば、倫理的言明や美的言明は、何らかの事実を述べるものではないゆえに「認知的な」意味をもたない。それらの言明は、その言明を行う者の態度や感情を表現する者として「情緒的な」意味をもつにすぎない。この説はとりわけ二〇世紀の倫理学に圧倒的な影響を与えた。(p.41)
論理実証主義、情緒主義、より一般には非認知主義(non-cognitivism)の台頭の結果としての価値理論の衰退と(安易な)メタ理論の隆盛、これを飯田さんとしてはネガティヴにみているわけです。氏によれば、価値理論の復興はロールズの『正義論』(1970年)を待たなければならず、さらに「分析的伝統の哲学の中でごく最近まで、美学に関してはほとんど見るべき仕事はなかったと言っても言い過ぎではない」(p.41 n12)とのこと。

でも、美学・芸術哲学に分析的伝統の視点から興味を持つ僕としては、20世紀のこのような展開は、逆に言えば、“新しい”価値理論のための豊穣な土壌を準備した、とも考えられる。少なくともそう思いたい(笑)。

その証拠に、『論理哲学論考』で論理実証主義の基礎を供給したヴィトゲンシュタイン張本人が、価値という謎には一生病的なまでに関心を寄せ続けたわけだし、ロールズやマッキンタイアが規範的倫理の再生のために成した仕事を、美学の再生のためにはグライスやカヴェルが成していると思う。このことは大変なことだと思うし、僕は残り少ない人生でこの辺を追求したいのだけど、どうやらプロの哲学者でもここを研究している人は少ない。まずグライスやカヴェルの仕事の含意するところが広く、完全に理解されていない(もちろん僕が理解しているということではない)。食物摂取に喩えるなら、まだ舌の上で表面の味を見ているだけで、噛み砕いてもいないし消化もほとんど始まっていない。

とにかく、言語哲学者は既に飽和状態に近いけども、分析的伝統に基づく美学にはまだまだやることがある。それに、ライバルは少ないほうがいい(笑)。

閑話休題。飯田隆さんはこの巻の最後の2章、「日常言語の哲学・分析哲学1」と「クワインとクワイン以後・分析哲学2」も執筆。論理実証主義以降、哲学の“自然化”とその超克の予兆に至るまで怒濤の現代哲学史をここまでコンパクトに、しかも一般の読者にわかるようにまとめたというのはすごい。

…すごいけど、もしかしたらあらかじめちょっとした予備知識がないとここだけ読んでもよく理解できないのかもしれません。僕はこの辺を一応少しは勉強しているから、こういう概論は復習として読めるし、要所を押さえてしっかり書かれているように感じるけど、初めてこのようなトピックを読む人にはちょっと専門的すぎるかもしれない。

逆に、既に予備知識があってさらに深くつっこみたい、という人にとっては、この程度の議論では物足りないかもしれない。「日常言語の哲学」は、厳しく言えば、“登場人物紹介”の域を超えていないようにも思える(おそらく紙幅制限の問題もあるのだろうけど)し、「クワインとクワイン以後」でも、クワインに関してはやや突っ込んだ説明があるけれども、その後のクリプキの業績には簡単に触れているだけ。

ということで、結論としては、ちょっと誰をターゲットに書かれているのかわからなくなってしまっているきらいがあるといえます。大学生なんかが教養(苦笑)としての哲学を学ぶ、という程度なら丁度良いかもしれないけれど、その目的ではシリーズ全体のページ数が多すぎる…。それでも、本棚の飾りになってしまうようなよくある全集ものとは一線を画するクオリティではあると思います。

ひょっとしたら、読みどころは章の間に挿入されている短いコラムなのかもしれない。これらは肩の力を少し抜いた感じで書かれていて、日本の哲学者がいかに西洋分析哲学と関わってきたか、自伝的エピソードも交えて書かれています。

飯田隆の学部時代の話もおもしろいけど、なんといっても石黒ひでによるアンスコムの行為論に関するコラムに僕は興味を惹かれます。というのも、石黒ひではオックスフォードでB.Phil.を取得していて、つまり僕の大先輩になるわけです。ライルがスーパーヴァイザ、ストローソンが論文の指導、ダメットの数理哲学ゼミ、そしてアンスコムの個人教授…ありえないメンバです。ザ・ゴールデン・エイジ・オヴ・オックスフォードという感じ。氏曰く、
一〇時過ぎに帰るとき、デートしている男女の学生が歩道のあちこちにいたことを想い出す。しかし私は、アンスコムに問いつめられた問題や示された疑問、そしてあらためて気づかされたポイントに興奮して自転車を走らせたことを。(p.492)
これを読んでまず思うのは、向こうにいったらまず自転車を買おうということ(笑)。

それにしても、こういう興奮が僕にもないわけではないけれど、「デートしている男女の学生」には目もくれないで哲学の問題を考え続けた、っていうのは、やっぱり学問の道を行く才能があってのことだよな、としみじみ思います。僕は、まず頭がたいしてよくないのが問題だけど、それ以上に熱意とか集中力とか、そういう人間として基本的なものが足りないのが問題です…。




posted by Yuuki at 11:28 | Comment(0) | TrackBack(0) | On Language
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