小説とそれを映像化した作品との関係は複雑だ。「忠実性」という曖昧な指標を使って映像を原作に従属させてしまってはいけないし、かといって二つをまったく無関係な作品として捉えることも不可能だろう。
文学評論家でも映画批評家でもない僕にはなんとも言えないが、京極夏彦氏の次の言葉は的確であると思う。
小説という素材を映画として料理したのではなく、森博嗣という器に押井守という素材が見事に盛りつけられている。原作者の森博嗣は『スカイ・クロラ』を自身の代表作と捉えている。森作品の数は膨大で、僕はそのほんの一部しか読んでいないが、『スカイ・クロラ』はとても森らしいと思うし、好きだ。この作品を持って森博嗣はいわゆる“ミステリ”作家ではない、と言いきることができる。(「ミステリアス」な作家である、とは言えるだろう。少なくとも「パズラ」という意味での「ミステリ」が森の本領ではないと思う。)
森作品でありながら押井映画以外の何ものでもないという、希有な例である。(パンフレット p.37)
華麗な空中戦を繰り広げる戦闘機とそのパイロットを主役とするこの作品は、しかし映像化を強く拒むものでもあった。それは何より、この作品の一番の魅力が森博嗣の絶妙な文体(地の文も台詞も)と、繊細ながら決してセンチメンタリズムに陥らない一人称の情景描写にあるからである。
森博嗣本人も、映像化のオファーがきたとき「どうして、こんなに映像になりにくい作品を選んだのかな、と不思議に」思ったという(パンフレット p.42)。脚本を手がけた伊藤ちひろも、原作を読んでの印象は、「文体が好き」だったというものだった(パンフレット p.44)。押井守も小説『スカイ・クロラ』を「サリンジャーのような作品」と端的に評している。
実際にその通りで、小説『スカイ・クロラ』に見られる、ハードボイルドな脆さ、危うさ、そして美しさは森作品の神髄といってよい。喩えの秀逸さはもちろんだけども、改行の使い方も世界観を形成する重要な要素になっているし、英語を翻訳したような台詞まわしも良い。これらは皆、映像にはできない事柄、つまり純粋に文学的な事柄だ。
心理描写もまた映像にすることは難しい。カンナミが“見る”蛾のイメージ、右手の感覚、回想される薄曇った記憶、ウィットと諦観に満ちた思考…こういったものをモノローグにしていたらきりがない。
つまり、こういった要素は映像化される必要もないし、しても仕方がない。映像制作者に課されるのは、文章では示唆されるに留まらざるをえない空気の肌触り、密度、そして震え(音)など、言葉には還元できない要素をいかに表現するか、ということだ。
この意味では、映画『スカイ・クロラ』は完璧に成功していると思う。素晴らしい作品だ。あらゆるディテールから熱意と集中力が感じられる。そう、いつも死に向かって飛ぶことを定められたパイロットのように。
飛行機や倉庫や建物もとてもよく書き込まれているし、そこから文字通り浮かび上がって来るようなタッチの人物もよい。カメラワークも効果的である。しかしなにより驚くのは空とその中にあるもの、つまり雲や太陽光や雨の描写の美しさだ。ここまで“背景”が美しい映画は他にないのではないか。
小説『スカイクロラ』に、次のラインがある。
僕はシャツを着てから、久しぶりの煙草に火をつけて、窓の外に歩いていく。最初に空を見た。外にあるものでは、一番好きだ。(p.64)映画『スカイ・クロラ』における空の表現は、ここに現れるカンナミの気持ちを完璧に映像化していると言える。
ストーリィを単純に比較すると、映画『スカイ・クロラ』は小説『スカイ・クロラ』とかなり違ったものになっている。大胆なカットが幾つかおこなわれているし、設定の変更点もある。しかし、どちらも些末な問題である。誤解を怖れずに言えば、この主の作品にとって、ストーリィなどというものは副次的であって、極端な話、どうでも良いことである。このことは、小説『スカイ・クロラ』が「chapter」つまり「章」ではなく「episode」つまり「挿話」で区切られていることからも明らかだ。この意味で、『スカイ・クロラ』は、小説も映画も、非常に絵画的であるといえる。任意のワン・シーンを切り取って、そのまま美術館で展示することができるだろう。
小説『スカイ・クロラ』で、僕の最も好きなシーンは、カンナミがクサナギに、「貴女は、キルドレですか」と尋ねるシーンである。映画『スカイ・クロラ』では、この質問は、小説とは大きく異なる場面で出てくる。それを観た時は違和感を覚えたが、後から考え直した。小説においてこのシーンが美しいのは、その文章表現が美しいのであるから、それを無理矢理映像にして失敗するくらいなら、ストーリィを変えてしまった方がよい。だから、この変更は、英断であると思う。(ただ、ミート・パイのジョークがしっかり表現されていなかったのは悔やまれる。)
小説『スカイ・クロラ』の世界観は素敵に曖昧で、いったいどこの国の話なのかよくわからないところに魅力がある。映画ではこの感覚がそのまま表れている。何度か画面に見える地図からすると、舞台はヨーロッパの北西部である。しかし、パイロット(の一人)は讀賣新聞を購読している。基地の近くのダイニング・バーはアメリカ風である。そこで流れるテレビはBBC、つまり英国のニュースである。フーコとクスミのいる洋館はヨーロッパ風だが、彼女たちの言葉と仕草はアメリカ人のそれを彷彿させる(これは小説でもそう)。
この映画のメッセージはなにか? 何にでもメッセージをもとめるのは良くない。マスコミや教育のとても悪い癖だ。なにかメッセージを求めて映画を観にいくのではないだろう。森博嗣は、自分の小説にメッセージなどないということを何度も書いている。インタビューでは、次のように言っている。
メッセージにならないから、僕は小説を書いたのです。押井守も、言葉に還元できるメッセージにはならないからこそ、映画を作られているのだと思います。(パンフレット p.42)これはまったくその通りだが、メッセージを持たないというのと、言葉にならないメッセージを持つというのは全く違う。メッセージがあるのとないのと同じだけ違う(「いるか、いないか。人の状態は、この二つしかない」とはクサナギの言葉である)。森博嗣の小説にはメッセージが全くないと思う。モーツァルトの音楽にメッセージが全くないのと同じように。それは美しいことだ。これとは対照的に、押井守には確固たるメッセージがある。それが決して言葉に還元できないものであるとはいえ。
芸術と「メッセージ」の関係の問題は一筋縄ではいかない難しいものだが、僕自身の現時点での考えは、メッセージが作品を汚してはいけない、純度を下げてはいけない、というものだ。メッセージが前面にでてきてしまったら、その作品は、よくて倫理か、悪ければイデオロギィに成り下がってしまうだろう。その意味では、押井守は、芸術作品にメッセージを織り込むということに成功していると思う。
映画『スカイ・クロラ』に関して一つだけ否定的な意見を述べるとすると、クサナギの声に配された菊池凛子は明らかにミスキャストだと思う。女優としての彼女の演技に関しては特に意見はない(『BABEL』の演技はまあまあよかったと記憶している)が、声優としてはかなり程度が低い演技であったと思う。トーンが変にわざとらしく、クサナギのキャラクタにあっていないし、聞いていていらいらする。声優と俳優は全く違うものなのだなとあらためて痛感させられた。
もう一つどうでもいいことを書き加えると、映画『スカイ・クロラ』には、日テレ『ズームイン!!SUPER』でおなじみの西尾由佳理アナがチョイ役として登場するのだが、僕は、西尾アナ、結構好き。笑。ホントどうでもいいけど。
菊池凛子さん、残念だったんですね・・・。
加瀬亮さんの声は良くないですか?? 笑
あんなしゃべり声になってみたいなとちょっと思いました。
院試が終わったら好きなだけ観ればいいじゃないか!笑
加瀬亮の声はまずまずだったと思う。でもそれより、カンナミのルームメイトのトキノが作画も声(谷原章介)も考えていたイメージとぴったりでなんだか嬉しかった。