で、そのあとフーコーとかデリダとかいろいろ僕にはわからないことがいろいろ書いてあるんだけど、とにかく無限という概念の西洋思想におけるセントラリティ(centrality)に関しては疑いないと思う。
無限というのは奇妙なもので、わかるようなわからないような、認識できるようなできないような曖昧さがある(cf.有限の否定を理解すれば無限を理解できたことになるか?)ので、お茶を濁すようなことを言う時に便利だと思う。用途は限り無い(洒落である)。
僕が哲学専攻と知って、さらに哲学の中でどの分野を勉強しているのかと聞いてくる物好きな人がたまにいるけど、その時は一応美学、言語哲学、宗教哲学の3つだと答えることにしている(もちろんこんな区別は対して重要でもないわけだけど、なんとなく締まりがある回答だし)。で、もちろん「無限」はこの三つのカテゴリすべてにおいて非常に重要な役割を持っている。これからは「無限」について勉強しています、って言おうかな…。
無限に関して言えば、木村君も書いている通り、確かにデカルトは少し的外れな感がある。『省察』にも『方法序説』にも無限は無限として現れていないと思う。神様もほとんど都合のいい道具として扱われているというか…。彼の奇想天外な物理学にしても、ストイックな倫理観(ボヘミアのエリザベス女王との書簡参照)にしても、フレームワークがある意味で非常にローカルな気がする。これはデカルトが代数的というよりは幾何学的に物事を考えていたのではないか、という(今思いついた)憶測と関連づけできると思うのだけれど、いかがか(誰に聞いているのか)。
もちろん彼がヒュームのような無神論者であったというわけではなくて、それはまた別の問題だけど(ロロード教授に聞いたところによると、デカルトは日曜礼拝にも参加したし、告解もたまにはちゃんとやっていたらしい)。
となると、いわゆる大陸合理論者の中では、スピノザとライプニッツの方がずっと興味深いということになる。スピノザからデカルトを引き算して、残りを研究すると面白いと思う。この差がいわゆる“sub specie aeterni”じゃないか。『エチカ』は半端なく難しいけど…。でも例えば彼の神の定義だけを見ても「それっぽさ」はわかると思う:
By God I understand a being absolutely infinite, that is, a substance consisting of an infinity of attributes, of which each one expresses an eternal and infinite essence. (The Ethics, Bk.1 Pt.1 Def.6)
個人的にはスピノザよりもライプニッツの無限論(主にモナドロジー)の方がなんとなく美的センスがある気がして興味があるのだけれど、こちらは彼の数学も考慮しなければならないので、その意味で近寄りがたいんだよね。ライプニッツはいろいろな種類の無限があることを直感していたけれど、僕はωが一番目の超限順序数(transfinite ordinal number)である、ってことの簡単な説明を聞いただけで「ほぇぇ…」ってなっちゃうから。
最近ちょっと思ったのは、もうちょっと頭が良ければ、数学とはいかないまでも科学哲学をやってたかなぁ、ってことで。クワインを少し読んだり、Jon(HAPの教授ね)の話を聞いている限りでは、数学の哲学とか集合論はかなり面白そうに思える。無限論だけでなくて、形而上学一般に関してこの辺の分野が示唆するものは結構あると思う。
事実、無限において数学と哲学が混ざり合うということは初期ヴィトゲンシュタインが間接的にせよ示していると思う。僕はほとんど数学コンプレックスに近いものを持ってしまっているので敬遠してるけども、ちょっとはがんばって勉強しなきゃなぁ。(といってもうちの大学、数学科には集合論のクラスはなないらしい。院の哲学科の論理学のクラスでやることもあるとか。)あと数学プロパーじゃないけど、もちろんメシアンについて勉強する、って手もあるな。
とまあそんなことを考えていたら谷川俊太郎の散文詩に興味深い一節があったのでそれを書き写しておく。詩人は哲学者とはちがうけどね:
このように無限(infinity)という考えに固執することが西欧的であるとすれば、永久(perpetualness)という考えに傾くのは、東洋的であると言うこともできるでしょうか。東洋に遠近法が発達しなかったのは、私たちに永久という観念はあっても、無限という観念はなかったことのひとつの傍証であるかもしれません。このことは私に、宇宙をどこまでも旅することができるとすれば、その旅人はいつか出発点に戻らざるを得ないという、現代宇宙論の示唆する結論を思い出させます。もしそうだとすると、宇宙に外側というものが存在しないように、一枚の白紙にも裏面というものは存在しないのでしょうか。(「K・mに」 『日本語のカタログ』所収 谷川俊太郎詩選集2 232-233)
ということはもちろん「永遠」と「Eternity」の違いを考えることが重要になってくる。西脇の『えてるにたす』でもまた読むか、なんて思っているけど。
思ったのは、スピノザに相当興味を示し、また「永劫回帰」のアイディアを提示したニーチェは、「無限」に関してはそれほどセンシティヴでなかったのではないか、ということ。「Eternal Return」は名前だけが一人歩きしてすこしうんざりだけど、とにかくニーチェは無限とキリスト教を明確に結びつけて考えなかった、もしくは考えることができなかったように思える。ともすると、無限の理解の仕方によっては、ニーチェは世紀の大神学者になっていたのではないかという予感さえする。彼の場合は「eternity」というものが、カント的な「Noumena」、またパウロ的な「the Beyond」とごっちゃになってしまっていたんじゃないか、なんて。
Current music: Éclairs sur L'Au-delà... (Messiaen), by Simon Rattle (cond.)/Berlin Philharmonic Orch.