07/17/2006

「オチ」のない話、のオチ

先日このポストで「オチ」のない話について少し考えてみたんだけど。まず「オチ」というのははボケとツッコミのペアとして見ることができることがわかった。ところが、日常生活の中では「ボケ(意外な展開)」があっただけで話の「タネ」にはなってしまうので、結果として「ツッコミ(結論・解決)」がなくて「オチ」のない話が生まれてしまう、という結論に達した。

でも実は「オチ」をボケ・ツッコミのペアとして考えるのは日本的なことなのかも。というのも、いわゆるアメリカン・ジョークにはツッコミがないのが多いんだよね。まずは下の例をご覧あれ:
「ジョニー、宿題はどうしたの?」
教師は期待と言うよりは希望を込めて訊いた。するとジョニーは言った。
「先生ごめんなさい、できなかったんです。周りがとてもうるさかったので。」
「うるさかった? 夜中ずっと? どうしてうるさかったのですか?」
「テレビです、先生。テレビの音が大きすぎてとても宿題なんてできなかったんです。」
教師はじっと我慢するように答えた。
「ジョニー、あなたはもちろん音を少し下げてもらうように頼むこともできたはずでしょう?」
「いいえ、先生。だって部屋には他に誰もいなかったんですもん。

(出典:Weirdity、僕の翻訳)
はっはっは。…いや、まあジョークそのもののクオリティはさておいて、これがもし日本の「お笑い」だったら最後に教師が「じゃあ自分で消せよっ!」とかなんとか言ってはじめてスッキリとオチるはずなのに、ここではそれが省略されている、ってこと。

一言でビシッと決まるような「ツッコミ」の言葉を入れるのが難しいようなジョークもある。シュールな感じのやつに多いんだけど:
新しい囚人が刑務所に着いた。入所手続きが済み監房へ入れられると、程なく誰かが大声で「52」と叫んだ。すると囚人全員が笑い出した。

静かになってからしばらくすると今度は誰かが「23」と叫び、またみんな笑い出した。不思議に思ったその新米は、番号が言われただけでどうしてみんな笑っているのかを古参の囚人に尋ねた。

するとその古株から、答えが返ってきた。「俺らはここが長いもんだから、同じジョークを何回も聞かされているんだ。そんで、時間を節約するために各々のジョークに番号を振ったっていうわけだ」

その時、また一人の囚人が「37」と叫んだが、みんな静まり返ったままだった。新米が古株に「どうしてみんな笑わないんだ?」と尋ねると、「なぁに、あいつは冗談の話し方っていうもんが分かってないのさ」という返事だった。

「俺もやってみていいかなぁ?」、と新米。「おお、やってみな」、と古顔。

そこで、新米はしばらく考えて「97」と叫んだ。すると大騒ぎになり、みんなヒステリックなほどに笑い始め、床の上を転げ回った喜んでいる者もいた。30分ほど経っても、まだ思い出し笑いをしている者がいる。新米はジョークが受けたことに気をよくして、「面白いヤツだったんだろうね?」と古顔に言う。

「ああ、最高だった。何せ、新ネタだったもんな」

(出典:2chテラワロス
これが日本のコントだったら、やっぱり最後に新米の囚人がなにか突っ込んでで「オチ」を完成させなきゃいけないと思うんだけど、じゃあなんて突っ込めばいいだろう? ツッコミどころが一つじゃないからスパッと一言でまとめるのは難しいかもしれない。でもその辺のシュールさがこのジョークの魅力になってる。

つまり、上のようなジョークでは聞く側が想像力を働かせて「オチ」を完成させないといけない、ってこと。これは舞台の上で「ツッコミ」担当の芸人がしっかりネタをまとめてくれるケースと対照的だね。この意味では日本のお笑いには、なんでも人任せで見てる方は受動的に笑いをもらうだけっていう傾向があるのかもしれない。

とにかく、人にものを話す時は「ツッコミ」を考えて「オチ」をつけたほうがいい、っていう考え方はどうやら間違っているということがわかる。話をする人に完璧な「オチ」を望まないで、聞く側も想像力を働かせて「ボケ」の微妙にして複雑な「ツッコミどころ」を積極的にとらえないといけない、ってことだね。

想像力って何度も書いたけど、ものすごくキーだ。

簡単な「ツッコミ」がつけられないってことは、一言で表せるような結論がないってこと。で、そういう複雑なものに芸術的魅力を感じるってことはなかなかおもしろいというか、興味深いことだと思う。堅い頭で簡潔な結論ばかり求めて話を聞いているとこういうことができなくなる。

でもじゃあ「ツッコミ」文化をつくった日本人は「オチない」魅力を感じられないかっていうと全く逆で、例えば風景を叙述した俳句なんかは「オチない」芸術の一つのきわみであると言っても良いと思う。

これは最近気がついたことなんだけど、例えば篠原鳳作という人にこんな句があって:
蟻よ薔薇を登りつめても陽が遠い
これ、僕は果てしなく好きなんだけど、何が(どこが)いいのかって言われるとそれは蟻と薔薇と太陽を並べてみたイメージの強烈さにつきるわけで、この句が「言ってること」自体はなんの不思議もないただの事実なんだよね。言ってしまえばただの状況描写。

つまり、極端な話この句を読んで人は「…で、オチは?」とか「…だから、なに?」って訊くかもしれない。でも実はここにはこれこれこうだからこうとか、結論は云々っていう問題は一切ないんだよね。蟻が薔薇に登って、陽はそれでも高くて遠い。だから悲しいとか嬉しいとかかわいそうとか、そういう問題じゃないし、虚無感をあらわしているわけでも達成感をあらわしているわけでもない。この句には「オチ」がないんだね。ただ、読んだ瞬間に「はぁぁ…」ってなる。それが感じられるかどうか。

「…で、オチは?」っていうのは「…で、結局結論は何なの?」っていうこと。でも俳句とか詩とか、さらにはシュールなジョークにいたるまで、「だからなに?」っていうのがナンセンスな質問な場合がある。言葉が芸術たりうる所以は、言葉以上のものを示すことができるからで、だから「言葉ではあらわせない気持ち」があるって知ってても「言葉は大切」ってきっぱり言い切ることができる。

だから、「…で、オチは?」って訊く人はやっぱりデリカシーがないと感じられてもしょうがないというか、まあとにかく話の微妙な魅力を感じられない人、と思われるかもしれない。「…で、オチは?」って訊くことが非常に無粋で的外れな場合も往々にしてある、ってこと。

posted by Yuuki at 20:59 | Comment(0) | TrackBack(0) | On Aesthetics
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