10/30/2006

学校でなにを学ぶか

今学期も既に折り返し地点を過ぎて、最近は来学期のクラス選びで悩んでいます。

取りたいクラス、やりたいこと、は山ほどある、でも大学生活は一回しかない、それに自分の能力じゃやりたいことのほんの少ししか達成できない…毎学期クラス選びの時期になるとこうして自己嫌悪に陥るわけですが。

ま僕の個人的な時間割の話はおいといて。そんなことより、ねぇ! 新庄選手が有終の美を見事に飾ったそうじゃないですか。僕は文字のニュースしか読んでないけど、それだけでも彼のキャラクタが十分伝わってきて少しウルっときてしまうほどでした。

何かを上手く終える、「詰め」を鮮やかにこなす、ってのは難しくて、なんだかとっても清々しい気持ちにさせるものなんだなぁ、って。

* * *

さて、後を濁さず美しく次の世界へ発つ、という以前に、まず羽が生え揃っているのか微妙な若い鳥たちが問題になってます。必修科目の履修漏れ問題に巻き込まれている高校生のことです。

最初は単なるローカルな不祥事だと思い込んでいたんですけど、数日のうちに他のケースがでるわでるわであっという間に全国規模の問題であったことが明らかになりました。友達の高校の名前も挙がったということで、いよいよこれは他人事じゃないんだな、と。

僕の率直な感想は、受験生が可哀想だとか、受験重視の教育に憤りを感じるとか、そういうんじゃなくて、え、なんでこんなことが起こりうるの?、っていう、なんていうか呆気にとられた感じです。

(今から述べることは日本の高校に行ったこともない、常識もない、考え方の少しおかしい人間(つまり僕)の感想なんで、完璧に無視してほしいんですけど…)

必修科目という概念を知っておきながら、何が必修科目かを知らなかったという生徒や保護者が多くみられることに僕は驚きを隠せません。必修科目というものがあったいうことさえ知らなければ、「履修漏れ」という可能性すら頭に浮かばないわけで、まあ(百歩譲って)「被害者」というラベルも納得できなくはないんですが。

高校には卒業のための必修科目というものがある、またはあるらしい、ということを知っていたなら、当然次の質問は「じゃあ何が必修科目なのか、それがしっかり時間割に入っているか?」になるんじゃないでしょうか。日本の高校生がどうやって時間割を組むのか(もしかして全く組まない?)知りませんけど、自分のスケジュールを考えたり通知表を見た時に、果たして自分は卒業するための条件を満たしているか、って考えることはないんでしょうか。

すくなくとも保護者はそれをアクティブに確認して当然である気がします。授業にある程度「選択」の余地がある限り、学校に行けばそれだけで卒業できるという考えは間違っているわけで、生徒の学習計画を最終的に監督するのは学校と保護者の共同の役割でなければならないはずです。高校からオートマティックに与えられたものをそれなりにこなしていれば当然卒業できる、という考えは果たして当たり前でしょうか。

保護者だけを槍玉にあげたくはないですけど、履修漏れが黙認されていたケースでも同様です。現代社会の授業を受けたのに、世界史の欄にも成績がついていた。この時点で生徒としてはもちろん教師に理由を質すべきであり、実際多くの生徒がそうしたようです。しかし教師はその場しのぎの理由をつけてやり過ごす。

生徒にできることはここまでだとしても、少なくともその成績表を見た保護者はそれを学校側に質すべきだったのではないでしょうか。このあたりのコミュニケーションがこの問題では今まで皆無だったような予感がします。

問題が起きればことごとく教師を批判するのに、履修漏れに関しては「教師が大丈夫と言ったから大丈夫だと思った」で責任を逃れることができるでしょうか。

ものすご〜く一般的なことを言ってしまえば、(特に受験と学校での勉強がほぼ完璧に乖離している状況下で)学校っていうのはただなんとなく行くところで、自分が何をそこでしているのかなんてことは問題意識に上がらない、という状況が底辺にあるかと思われます。自分の勉強していることについてすこしでも能動的であれば、今回のような問題はなかなか起こりえないように感じます。

教育論とかそういう抽象的なレヴェルに問題を持っていくとややこしくなります。しかし、現実的なレヴェル、つまり今の受験生が立たされている状況については、はっきりいって僕にはどうすればいいか検討もつきません。残念な事ですし、当事者には気の毒ですが、はっきりいってポジティブな解決策はないんじゃないかと思います。

* * *

さて、高校を卒業できるか否かという前に、中学生活を終える前に命を絶ってしまう人達がいます。いくらなんでも最近中学生の自殺のニュースが多すぎるように感じます。

あきらかに連鎖反応があるように感じますが、報道を規制するわけにもいかないし…。

自殺の問題について、僕は何も言いたくありません。何も言うことができません。「自殺してはいけない」という命題が真であること、証明することはおろか、満足に論理的に主張することも難しいように感じます。

命の価値。こんな途方もない事、いったいどこで学べというのでしょう? でもこの絶望的な途方もなさでさえ、教育の価値を否定するものではないはずです。寧ろ、どのようにしても学べないことがあることを学ばせるのが教育の一つの役割であるとも言えるかもしれないわけで。

…なんて、ほら、自殺だなんだっていう話題になるとすぐに形而上学的(metaphysical)になってしまう。僕はそれが嫌いなんです。だから僕は倫理ってものに対して生理的な反発を覚えます。

どうしたらいいものか…。

* * *

さっき食べたフォーチュンクッキーにこう書いてありました:
“Doing what you love is freedom. Loving what you do is happiness.”
これはソクラテス的といっていいと思いますが、彼が『国家』の中で繰り広げた教育論から僕たちは今何を読み取れるでしょうか?

posted by Yuuki at 12:24 | Comment(0) | TrackBack(0) | On Schooling/Education
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