To live alone one must be a beast or a god, says Aristotle. Leaving out the third case: one must be both――a philosopher.(Nietzsche, Twilight of the Idols "Maxims and Arrows," 3)
独りきりで生きるためには、人は獣か神にならなければいけない、とアリストテレスは言った。しかしもう一つ、可能性が残っている。即ち、獣と神に一度になることーー哲学者になること!(ニーチェ 『偶像の黄昏』 “金言と矢” 3)
ソクラテスにとっては、徳(virtue、アレテー)を実践する事はすなわち幸福(happiness、ユーダイモニア)を得ることであって、また逆に幸福であるということはすなわち徳を実践するということであったので、外的な要因は幸福には関係ないとされます。
対してアリストテレスは、幸福は人間の最高の目的であって、それに徳と知(knowledge、エピステメ)が密接に関係している、という点ではソクラテスに同意しますが、外的な要因も幸福に影響すると主張します。
例えば、ここに完璧に徳の高い人がいたとします。さらに、この人がなんらかの原因ですべての人から嫌われていて、(事実とは逆に)徳の全くない極悪人だと思われ、逮捕されて牢屋に閉じ込められ、富も名声も、人間としての通常の暮らしも何もかも奪われた状態にあると仮定します。ソクラテスによれば、この人はそれでも幸福であるということになります。しかしアリストテレスによれば、この人は幸福ではありません。
アリストテレスによれば、人の幸福にとって必要な外的な要因には、基本的な生活環境(衣食住に加えて、政治的平和や社会福祉など)、最低限のお金、それから友情(friendship)が含まれます。人間ってのは独りきりの力じゃどうしたって幸福には生きていけないよ、ってことです。
僕はこの、幸せになるためには友達が必要である、という考え方が好きで、『ニコマコス倫理学』でもその部分を読みたかったな、と思うんですけど結局HPAMでは読みませんでした(自分で読めよ、って話ですけど)。とにかく哲学者というとどうしても堅ーいイメージがあるけど、こういう割とフツーのことも言ってるよって一例です。
* * *
で、今はエピクロス主義について(キケロを通して)少しかじっているわけですが、ここでも友情は幸福な生き方にとって必要不可欠なものとされています。
友人の快楽そのものは自分の幸福にとって最も価値のあるものではないけれども、理性的に考えた時、自分の幸福(苦痛の回避)を補助するものとして友情以上に有効な関係はないし、また友人の快楽に自分の快楽を見いだす事もできるので、友情ほどに大切なものはないよ、ということみたいです。
もちろん、このように友情を自分の快楽を理由として評価することが正しい事か、という反論がでてきます。友情はそれ自身が目的であるべきではないか、という意見です。これに対してエピクロス派としては、自分の快楽を最高の価値としたとしても友情の価値が損なわれるわけではないし、それどころか、エピクロス主義的に幸福を規定しなければ、友情に価値を見いだす事は不可能である、という風に答えます。
友情は手段としてではなく、目的として評価されるべきである、というのは直感的だと思います。何かを得るために友達をつくるわけではない、という意見です。「僕に何々をしてくれるから」友達なのではなくて、ただ単に友達だ、ということです。
この直感的な意見に対してエピクロス主義の友情論がどれだけ説得力があるかわかりませんけど、友情そのものを評価することに疑問を投げかける説としては、僕は聖アウグスティヌスのものが好きです。
アウグスティヌスによれば、人は人を目的(end)として愛するべきではありません。(これは例えばカントとほとんど直接的に反対の考え方です。)アウグスティヌスは、他人に対する愛は、神に対する愛の一部として受け止めるべきだと主張します。
直感的にはどーなの、と思うかもしれません。けれども、アウグスティヌスによれば、人は愛することしかできないわけで(悪は間違った愛し方の結果とされる)、さらに、正しく愛す限りは神を愛さないことは不可能なわけですから、「神のために」人を愛するといっても「人を手段として扱っている」とはまったくニュアンスが違うわけです。
* * *
僕はアウグスティヌスのこういう考え方が非常に好きというか、これ以上ないほどに素晴らしい考えだなぁと思うんですが。
で、最近こんなふうに友情についてちょっと思索してるんですけど、改めて考えると大学生活3年にして友達が一人もいないって、なんて言うか、文字通り「凄い」な、って我ながら少し呆れるというか、妙に客観的な驚きがあるんですけど。よく生きてるな、いや生きてないのかな?って。
どういう風に「友達」を定義してもらってもかまわないんですけど。
友達なしで人は幸福になれるか。問題をもうちょっとリアルにすると、友達なしで私は幸福になれるか。僕はこの問題には自分は答えられないな、と思うんですね。
というのも自分が幸福かどうか、そんなことをいちいち立ち止まって考えないからです。幸福であると断言することは多分できないだろうけど、幸福でないとは多分いえないだろうと。
それをいっちゃあおしまいよ、といっちゃあおしまいですが。
* * *
じゃあこういう風にやや感傷的な文章を何故書くのか、と。そこが我ながら卑しくて嫌らしいところで、まあそういう人間だからしかたないし、そういう人間だから友達もできないんでしょう。怠惰の哲学というのはアプリオリで不可能です。
メタフィジックスに対して絶対的な諦観があるというか。でもメタフィジックスなしでは何もかもが不可能になってしまうわけです。ノンセンスを語る事を恐れるな!とヴィトゲンシュタインは言いましたが、それが神と獣に一度になる、ということでしょうか。