12/24/2006

愛について、幾つかのナンセンス

スガシカオは「愛について」という作品で「♪僕らがもう少し愛についてうまく話せるときがきたら暮らしていこう…」と歌っている。愛について話す、愛について“うまく”話すとはどういったことだろう。せっかくのクリスマスイヴだから、そんなことを寂しく、孤独に考えてみたい。

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愛はそれ自身であるために完全である。
ある日寝ていたら、こんなアフォリズムを思いついた。意味があるようでない、ないようであるかもしれない、思考の出発点としては最適なナンセンスである。ここから始めよう。

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愛はそれ自身であるために完全である、と言う。しかし、愛はいつもそれ以上のなにかである。愛がただ単に愛に過ぎなければ、それは愛とは言えない。これは、言葉がいつも言葉以上のものであることと同じである。Love Psychedelicoは「fantastic world」で「♪I say something more, I love you more」と歌っているが、それはこのことを言っている。愛はいつでもmoreなのである。同じ曲の終盤には「♪前線はまだ見えない talkin' bout love いけよfantastic world」という一節がある。愛はいつもそれ自身を越えてあるものだから、実は「前線」はいつまでも見えないのである。ただ、それこそがこの世界が「fantastic」である所以である。

ハイデガーは、現存在(Da-sein)はプロジェクト(project)という形で投げ落とされた可能性(thrown possibility)であるがために、いつも自分自身以上の存在である、というようなことを書いている。同じようなことを言っているのだと思う。

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愛はそれ自身であるために完全である、と言う。ただし、愛の完全性とはその絶対的な不完全性のことである。単に世界が自分だけでなりたってはいない、ということではなく、私ではないこの人なしでは、(私の)世界は成り立たないのである、という依存を認識することである。

デリダはすべての他者は神のように他者であると言った(Tout autre est tout autre. = every other is wholly other.)。これアイディア自体はそれほどオリジナルなものではなくて、それは結局パウロであるとか、アウグスティヌスであるとかが暗に示唆していることである。 美しいと言えば極めて美しい考え方だし、当然と言えば当然である。

このような考えから問題になってくるのは、ある人は他でもない“この”人であるという単独性(singularity)だとか、歴史、もっと細かく言えばすべての出来事の一回性、それから感情の特殊さ(particularity)や偶然性(contingency)である。ヌスバウムによれば、このような事柄は、通常の乾いた哲学の論文調の物言いでは考えることも伝えることもできない。それができるのは、例えば(ヘンリー・ジェームスのような)小説であると彼女は言う。バフチンが、小説の特徴は幾つもの言語のイメージが重なりあって、内的に対話化されたヘテログロッシア(heteroglossia)が表現されている点にある、と考えたことと照らし合わせるとわかりやすい。

私は一つの言葉しか持っていない、しかしその言葉は私の言葉ではない、ということをデリダはMonolingualism of the Otherというエッセィで考えている。私の言葉がまさに他者の者であることによって私のものになるのと同じで、私の愛はまさに他者の愛であることによって、私のものになるのである。

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愛のそれ自身、とは一体何か。tangibleな、つまり触れられる愛と、intelligible、つまり触れられない愛がある。触れられない愛については、それを知ることができる。しかし、さらにはunintelligibleな、つまり触れられることも知られることもできない愛がある。そのような愛にすべての愛はもとづいていて、ここからすべての呼びかけ、眼差し、手探りが始まるのである。unintelligibleな愛は感知されないのに、どのように人の心の中にあるか。信じることによってのみ、である。

ティリッヒは「信仰」を「究極的な心配(concern)を持っている状態」とした。もし、上で書いたように神への愛がそのまま他者への愛ならば、人を愛するということはその人について「究極的な心配を持つ」ということである。当然ながら、そこには不安があり、疑いがある。愛する人とわかりあうことの絶対的な不可能性がある。それゆえに、愛と言う信仰にもシンボルが欠かせなくなる。

(ハイデガーは現存在(Da-sein)の世界内存在(In-der-welt-sein)は「気配り(care)」によって特徴づけられると言った。しかし、現存在が自分以外の別の現存在とあることは共現存在(Mitda-sein)としてあり、「心配(concern)」の対象であると言った。ティリッヒがハイデガーにどのように影響を受けていたのかはしらないが、興味深い共通点であることは間違いない。)

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愛のそれ自身、とは一体何か。「真実の愛(true love)」などとよく言われるが、これは明らかに重複表現である。真実でない愛などないのだから。

アウグスティヌスは、初期キリスト教父の間だけでなく、西洋史すべてを通じても、愛について最も真剣に考えていた思索家の一人であるといってよい。彼によれば、人間は愛することしかできない。憎しみや妬みといったものは、愛が間違った方向に向けられているというだけの話である。もちろん、このことは、悪は善の欠落であるという考え方と関連している。

キリスト教でいう愛とは「アガペー(agape)」つまり、神の犠牲的な愛のことであり、それはチャリティー(charity)とも訳されるものである。友達であろうが、家族であろうが、恋人であろうが、神の元においては愛は同じであって、等しいものである。例えばイエスは使途達に、自分が彼らを愛したようにお互いを愛するように諭している。それは友達のために自分の命を捧げるということである(ヨハネによる福音書 第15章13節)。

おおげさに聞こえるかもしれないが、じつはこれが人間の間の関係の絶対的な前提にある。それはデリダの言うところの、信仰以前の、すべての信仰の可能性としてある反応(response)、真実の約束(promise)、他者を他者として信じることである。

クリスマスであろうが盆であろうが、他人であろうが恋人であろうが、愛を伝えるのであろうが嘘をつくのであろうが、呼びかけそのもの(address as such)はそうした愛を置いては考えられないものなのである。

パウロがコリント人への第一の手紙において「信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」(第13節)と書いているのはこのためである。この数節前に、愛に関する聖書のパッセージとしておそらく最も有名なものの一つであろう「愛は決して滅びない(Love never fails)」(第8節)という一文がある。日本語にすると「滅びない」と堅苦しくなってしまうが、ここには、愛が永遠になくならないと言う意味だけでなくて、愛は決して失敗しない、決して間違っていることがない、というような意味合いも含まれている。ここまで書いて来たことを考えると、確かに力強い言葉ではあるが、決して理解し難いものではない。

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愛についてうまく話すということは、つまり、ある意味で愛について沈黙するということなのかもしれない。
木枯らしの吹く道を手をつないで家に帰って、ろうそくの小さな明かりの下で一緒に温かいスープを飲んで、そのあとソファに座って互いの物語を分かち合う、それが愛である。

posted by Yuuki at 00:28 | Comment(0) | TrackBack(0) | On Religion
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