この前の記事では、“「死んではいけない」と言う行為”の意味の二つの可能性のうちの一つを考えた。一言で言ってしまえば、「何人も自殺してはいけない」ということが正しいという証拠はまったくないから、「死んではいけない」と言ってはいけない、と主張したのだった。
ただ、「死んではいけない」と言うことにはもう一つ意味がある、と書いた。それは、「死んではいけない」という文がある命題を表しているのではなく、ただ単に自殺という行為に対する嫌悪の感情を表しているという可能性である。倫理学の専門的な言葉で言うと「情動主義(emotivism)」という考え方と深く関連しているこの可能性を今回は考えることにする。
この可能性においては、「死んではいけない」と言うことは、例えばゴキブリのことを考えて「ゴキブリ! ひぇ〜!」と言うことと基本的には変わらない。それはいかなる命題も表していない。ただそれを言った人にとって自殺が嫌なものであるということが(暗に)示されるだけである。
この場合、「死んではいけない」という言葉は真でも偽でもない。正しくもないし間違ってもいない。それは、驚いて叫び声をあげた時の「うわぁ!」という言葉が真でも偽でもないことと同じである。ということは、当然ながらこの意味では、「死んではいけない」ということは間違っているから(偽であるから)「死んではいけない」と言ってはいけない、という批判は成り立たない。
それでは、自殺という行為に対して反感を覚えるのは人それぞれだから、この意味で「死んではいけない」と言うのは構わないのではないか、という気がする。しかし、たとえそれがただ単に嫌悪感を表しているだけであっても、「死んではいけない」と言ってはいけないと僕は主張したいのである。
まず、一番単純なレヴェルでは、「死んではいけない」と言うことが、本質的には「こらっ!」という怒号と同様に命題的な意味をもたないにも関わらず、あたかもそのような意味が表現されていると誤解されてしまう危険がある。これによって、「死んではいけない」という言葉があたかも“死んではいけない”という事実を表しているような錯角が起こる。
ところが、前回見たように、“自殺してはいけない”ということが事実である(真である)という証拠はまったくない。したがって、「死んではいけない」と断定的に言われることは、それを聞いたものに非常に理不尽な印象を与える結果となる。やがて、「どうして自殺してはいけないの?」という問いが投げかけられ、当然ながらこれに満足な答えを掲示することはできない。
しかしここで問題の見方を少し変えて、“自殺してはいけない”ということが事実であることが、果たして自殺防止の観点から望ましいことであるかどうかを検討したい。“自殺してはいけない”ということが仮に本当であるとして、果たしてそれは必然的に良いことだろうか? アナロジィで考えてみよう。
将棋とチェスはルール上似ている点が多い。しかし、将棋では一度取った相手の駒を再び使うことができるのに対し、チェスではそれができない。このため、チェスのルールしか知らない者にとっては、一度取った駒を再び使うことができないのは当然であり、それがとりわけて意識されることもない。
しかし、同じ者が一旦将棋のルールを知ってしまうと、一度取った駒を使うことがチェスでは「禁止」されているのだということことに気がつき、なぜそのようなルールが定められているのかが明白に問題化される。つまり、それまで当然のごとく守られていた行為が、実は「禁止」によるものであることに気がつく。それと同時に、「ルールを破る(violate)」ということが可能性として認識される。簡単に言えば、なぜ特定の行為を“してはいけない”ことになっているのか、という問いがたてられる。
では、将棋やチェスなどの「ゲーム」において禁止されている事項はなぜそのように定められているのか。それは、そのようなルールによってゲームがより公平でおもしろいものになるからである。それは決して「一度取った相手の駒を再び使う」こと“それ自体”が悪いことであるからではない。換言すれば、ルールというものは実際的(pragmatic)であって、この限りで恣意的(arbitrary)である。
「自殺してはいけない」というのも将棋やチェスのルールと同様に、社会という“ゲーム”における“ルール”であるといえる。そして、前回の記事でみたように、当然ながらこういったルールを本質的に正当化することはほとんど不可能である。
例えば将棋で歩が後ろに下がれないのはなぜか。つきつめればそれは、そう定めることによってゲームがよりおもしろくなるからである。では、社会において自殺してはいけないのはなぜか。それは、そう定めることによって社会がよりスムースに機能するからである。しかし、将棋やチェスといったゲームでは「そのルールに従って遊ぶ」ということがプレーヤの間であらかじめ了解されているのに対して、社会というゲームを“真剣にプレーしなければいけない”というきまりはどこにもない。だから、「自殺してはいけない」という“ルール”を強要するのは不可能に近いのである。(言い換えれば、ルールそのものをルールとして正当化することはできない。)
第一、「自殺してはいけない」ということが守るべきルールとして定まっていることは果たして望ましいことだろうか。少し回り道をしてしまったが、改めてこのことを考えよう。
あるゲームにおいて、定められたルールを守るのは“当然”のことである。ゲームを実行するためにつくられたルールを守ることは難しいことではない。例えば、チェスにおいて一度取った駒を使わないというのは当たり前のことであって、それを守ることは別に特別なことではないし、感心すべきことでもない。
一方、ルールで定められていないことを行うということには、なにか“特別”なものがある。ニーチェならば、あらかじめ与えられたルールを守ることではなく、新しいルールを創りながら生きることには強さと美しさがあると言うだろう。
僕が言いたいことはつまり、「自殺してはいけない」ということがルールとして定められていたならば、「自殺しないで生きる」ことの価値が下がってしまうだろうということである。「自殺してはいけない」ということがもしもルールで決まっているのならば、自殺せずに生きることは全然特別なことではないし、そうすることは当然である。「自殺してはいけない」ということはないからこそ、自殺しないで生きることになにか特別な価値ができるのである。
おもしろい、つまらないという尺度を用いても同様の議論ができる。「自殺してはいけない」ということがルールならば、生きることは至極つまらないものになってしまうだろう。「自殺してはいけない」ということが真ではなく、しかも自殺しないことを強要されることもないからこそ、“敢えて”自殺せずに生きることがおもしろくなる可能性がある。
僕は「自殺しないで生きる」ということ、より正確に言えば「自殺しないで生きることを選び続ける」ということは当然のことではないと思う。それは困難なことであり、正当化されえないことであり、それを成し遂げることは一つの達成(completion = achèvement = Vollendung)である。
これが、たとえ「死んではいけない」と言うことがただ単に感情の表現であったとしても、「死んではいけない」と言ってはいけない理由である。寧ろ、「自殺してはいけないということはない」ということを認識して、その上で人は、そして自分は何故自殺しないことを敢えて選ぶのかということを考えるべきである。
このことから、「死んではいけない」というのが「生きなければいけない」ということとはまったくの別問題であることがわかる。死んではいけないということはないのに、何故生きるのか。これを示すのはとてつもなく難しい問題である。考えるだけでも恐ろしいことだ。
ただ、一つ確かなのは、これまで考えてきたことから明らかなように、「死んではいけない」と主張することが自殺の防止に関してポジティヴな効果を持つことはありえないということである。逆に、正当化されえないルールを自らに課しながら生きる、「自殺してはいけない」ことはないのにも関わらず自殺を選ばずに生きる、そこにこそ何か特別な意味がある。「死んではいけない」と主張する者は、この言葉を自殺しようとするものに押し付けることがいかに殺人的な暴力であるかをもう一度考えるべきである。
01/04/2007
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