『散文詩・詩的散文』から「言はなければならない事」と「握った手の感覚」。前者は(詩的)言語の共有の絶対的不可能性について。ヴィトゲンシュタインとかバフチンとか。朔太郎は「考え」と「感覚」を対置して、後者に真理の可能性を求める。すなわち「真理とは五感の上に建てられたる第六感の意義である」(210)。このショーペンハウアー的な傾向が僕には少しひっかかる。エピクロス的でもあるのかな…。
後者は朔太郎のドストエフスキー体験について。特別なことは書いていないけれど、「自分の罪が許された」という感情に関する記述は素晴らしい。許されたとはどういうことかを論じること無しに、その奇妙な感覚だけを抽出して捉えている。「握った手の感覚」とは、未来にあるべきものに向かう勇気と希望のこと(219)。この不思議な感覚は、朔太郎にとっては、もちろん“感情”に基づいている。「私はただ私の『感情』だけを信じて居る」(223)。
朔太郎という人はなかなか繊細で一神教的な神経を持ってる。なかなか興味深い。中原中也との微妙な違いはここにあるのかもしれない(もちろん中也もキリスト教的なものの影響を垣間見せるけれども)。僕もキリスト教的な考え方に普通の日本人よりは影響を受けていると思うけれど、朔太郎のように自分の無力さや浅ましさを“そのまま”前に向いた力に変換するということができない。例えば朔太郎は「神を信ずることは人生の全目的であり、幸福の結論である」(220)と書いていて、これには僕も完全に同意するけれど、その後に「私が死ぬまでには、いつかは大丈夫であるという確心」(220)を持って「だから私はどんなに苦しくてもがまんする」(222)という結論を導きだすことがどうしてもできない。
もしかして朔太郎は皮肉を書いている? 僕もドストエフスキー“先生”を読むべきか…。
「非論理的性格の悲哀」。芸術の本質は論理に収斂されえない矛盾にあるという話。それから朔太郎本人が、矛盾に満ちた性格のためにいつも社会になじめなかったということ。こういう自分の弱さや特殊さを強調して、そのくせ同情を断固として拒否するようなタイプの自虐的物言いに、人はどういう感想を持つのだろう? 自分ではそういう文章はできるだけ書きたくないと思う。書いても仕方のないことだし、第一あまりカッコ良くない、強くない。でも結局書いてしまうけれど。しかし、こういう文章を書きたくないと思うことそのものが、僕が他人に対して持っている嘲笑的意識を暗に示している?
「自転車日記」は少年が自転車を借りて練習し、乗れるようになるまでの日記。カタカナと漢字の古文体がおもしろい。結構シュール。
「秋宵記(しゅうしょうき)」は朔太郎の離婚後の独身生活についてのエッセィ。彼は元来孤独癖があって、独りきりでいるほうが性に合っている、それでも何故か別れた女のことを思うと言い得難い哀傷を感じる、という、まぁ赤裸裸な告白。これは僕は結構好き。特に「妻がよく言った僕への不満は、何を言っても張合いがなく、無頓着にぼんやりしていることだった」(247)というのはとてもリアルだ。僕もそういう人間だから。
自分には結婚生活なんてものは不可能なことは充分承知だけど、それでもなんだかんだいってそういう「家庭」なるものに対するぼんやりとした憧れがいつもあるよ、ということ。孤独で結構、という気持ちにはどうしてもなれない、というところがポイント。このどうしようもない「あいんざあむ」(239; "einsam"=独語で「孤独な」の意)はなぜ胸にうずいてくるのか。「自分は永久にそれは知らない」(248)と朔太郎は書いている。
「叙情詩物語」は、朔太郎本人の幾つかの詩に、それらが書かれた背景を散文で付したもの。形式的にはランボーの『地獄の一季節』の“Délires”みたいなもの。朔太郎本人が「創作の動機している生活事情や、それの聯想(れんそう)している気分などを、打(ぶ)ちまけて語ることには、ある別な意味があるように思われる」(258)と付している通り、なかなかおもしろい。朔太郎の詩(とくにここでとりあげられているもの)はそれほどわかりにくいわけでもないけど、こうして空想のプロセスを辿ると、詩はこうして発生するのだという舞台裏を垣間見たような気持ちになる。
それからやはり朔太郎は散文が巧い。「せんちめんたる」ここに極まれりといった感がある。「野鼠」という詩のパラフレーズである以下の段落なども、それ自体が詩である。
昔は恋をしていた。土筆(つくし)や蒲公英(たんぽぽ)の生える野原に、一人口笛を吹いて寝ころびながら、あてもない恋人の来るの日を待っていた。けれども生まれつきの臆病で、内気で、恥ずかしがりの私に、どうしてそんな冒険ができるだろうか。少女等は手をつないで嬉々として戯れながら、春の幔幕にゆらゆらしている野原の向うへ行ってしまった。(249)
最後に「日本への回帰」。西洋的文化によって虚妄となった日本文化の中でこそ、詩人や哲学者が異端者として日本的なるものへの回帰を探求するのである、という話。ちょっと政治的なトーンがあって、僕はそこには興味がない。ただ、朔太郎のこうした文化的使命感のようなものがどこからくるのか、それには少し興味がある。
「僕らは絶対者の意志である。悩みつつ、嘆きつつ、悲しみつつ、そしてなお、最も絶望的に失望しながらしかもなお前進への意志を捨てないのだ」(322)と書く朔太郎。萩原朔太郎マイナスショーペンハウアーの答えはなんだろう?