誰かが僕を指差して、「この人は少し変わった人です」と言ったとする。この文の意味は、「Yuuki Ohtaは少し変わった人です」と同じである(より正確に言うと、この二つの文の真理条件は同一である)。つまり、名前を使うことによって、会話をしている時に直接指を差すことができないようなものについても語ることができるということである。
さて、言語哲学者の問いは、固有名の意味は何か、固有名はどのように理解されるべきか、というものである。
「名前のフレーゲ=ラッセル理論」と呼ばれる説によると、固有名というのは、それによって指示されているものを抽出するのに充分な説明的記述の鎖である。例をあげると、「Yuuki Ohta」という名前の意味(独・Sinn)は、
- 1985年10月31日に生まれた
- 日本人である
- 2007年3月現在ヴァージニア州立大学で哲学を専攻している
- 「Cahier No.9」というブログの筆者である
フレーゲ=ラッセル理論は、J. S. ミルが提唱した「直接指示理論」と呼ばれる考えに対する批判として20世紀の前半に展開されたもので、これを用いることで、名前と意味に関する様々な問題やパズルを、とてもエレガントに説明することができる。
しかし、20世紀の後半になって、クリプキやマルカスといった哲学者がこの理論に異を唱え始めた。彼らは主に様相論理の視点から批判を展開した。「様相」というのは、簡単に言えば、可能性とか必然性に関する話のことである。
「Yuuki Ohta」という名前をもう一度考えると、実は上に挙げた4つの記述は、凡て僕が偶然に持っている性質を説明しているにすぎないことがわかる。「Yuuki Ohta」という名前が示しているもの(つまり僕)は、ひょっとしたら1985年10月31日ではなく他の日に生まれたかもしれないし、日本人ではなかったかもしれないし、2007年3月現在この大学に在籍していなかったかもしれない。もちろん、「Cahier No.9」というブログも存在していなかったかもしれない。
ところが、直感的には、たとえ僕がこれらの説明にまったく当てはまらなかったとしても、「Yuuki Ohta」が他の誰でもないこの僕を名指していることにはまったく変わりないのである。
例えば、「もしあと5年早く生まれていたら、Yuukiは、留学なんてできなかっただろう」という文は、(他の誰でもなく)僕の可能性に関する(反事実的仮言)命題を示している。つまり、フレーゲ=ラッセル理論が要求するような記述が僕にあてはまらなかったとしても、この文が僕ではない誰か他の人間に関するものになるわけではない、ということだ。
(以上の議論は、難しい言葉を使って次のように短くまとめられる。すなわち、固有名を用いたde re様相記述が問題なく理解されることから、固有名が固定指示子であることが示唆される。)
僕の考えでは、固有名に関する様々な立場の分岐点は、固有名の指示対象「そのもの」と、指示対象が持っている「性質」の関連をどう理解するか、というところにある。簡単にいえば、これは、「もしも僕が、今僕の持っているすべての性質(身体的特徴、性格、歴史との関係、等々)を失ったとしたら、それでも僕は僕であり続けるか?」という問いである。
次のようなシナリオを想像するとおもしろい。自然科学の進歩によって、今僕たちが「レモン」と呼んでいるものの性質は、実は、今僕たちが理解しているものと大幅に異なるものだったことがわかったとする。そして、この新たに解明された性質によると、「レモン」は果物に分類するべきではない、という…
(クリプキによれば)直感的には、それでも僕たちは「レモン」は「レモン」のままであって、「果物でない「レモン」は「レモン」ではない」とは言わないだろう。これは、「果物であること」という性質が、「レモン」という名前で呼ばれているものにとって本質的ではないことを示している。
これに対して、次のようなシナリオはどうか。自然科学の進歩によって、今僕たちが「水曜日」と呼んでいるものの性質は、実は今僕たちが理解しているものと大幅に異なるものだったことがわかったとする。この新たに解明された性質によると、「水曜日」の次の日は木曜日ではなく、土曜日であるという…
直感的には、僕たちは、そんなことは絶対にあり得ない、と感じる。もしも、あるものの次の日が木曜日でなく土曜日ならば、それは「水曜日」という名前で指示されるものではありえない。このことは、「その次の日が木曜日である」という性質が、「水曜日」という名前で呼ばれているものにとって完全に本質的である、ということである。
この二つのシナリオの違いを生んでいるのは何かというと、それは、レモンが自然種(natural kind)と呼ばれるものであるが、水曜日はそうではない、という事実である。僕たちは、水曜日というものが一体なんであるか、あるものが水曜日であるためにはどんな性質を持っていなければいけないか、完璧に把握している。しかし、僕たちは、レモンの性質をすべて把握しているわけではないのである。
こう考えると、非常に重要な問いが自然と浮かび上がってくる。それはつまり、あるひとりの人間を指示するような固有名は、はたして「レモン」により近いか、それとも「水曜日」により近いか、ということである。
僕の考えによると、この問題で一番問題なのは、最初は固有名に関する言語哲学をやっていたのに、最後には人間に関する形而上学にすり替わってしまっている、というところである。しかし、もちろん、それがこの問題をとてつもなくおもしろいものにしているのである。