04/07/2007

死ぬまで哲学を勉強する

日本では4月は年度の始まりですが、5月に年度が終わるアメリカではいよいよ年度末という感じで忙しくなってきてます。僕はとしては大学三年の最後の一ヶ月です。光陰ゼノンの矢の如し(笑)。

僕は来年はいよいよ卒業論文というやつを書くことになるので、これこれこういうことについて勉強したいのだ、といういわゆるプロポーザル(提案書)を提出しなければいけません。

今週それをざざっと書いてアドヴァイザのM教授にみせてみたのですが、学部レヴェルの卒業論文では到底実行不可能、というありがたい助言をいただきました(笑)。いろんなことに手を出し過ぎってことです。教授曰く、「哲学では“less is more”」とのこと。

結局、もっとぐっとフォーカスを絞って書き直しました。今は、ポール・グライスという哲学者の意味と意図に関する議論から始めて、対話者の意図が会話の中でどのような役割を果たすか、ということを考えようと思っています。

確かに、最初のプロポーザルを自分で読み直してみたら、しがない大学生の卒論の計画というよりは、研究者が一生かけて続けるような広汎で学際的なリサーチの説明のような感じです。言語哲学、美学、宗教哲学、それからコミュニケーション理論なんかがごった煮になってるような感じ。

でも実はそれが僕がやりたいことなんだよな、という感じもします。つまり死ぬまで哲学を勉強するってことです。で、どんな哲学を勉強したいかっていうのは、大筋ではおぼろげながら見えてきている、と。だから、最初に書いたプロポーザルは、僕の人生プランのようなものです。

大学で三年ばかり少し専門的に哲学をやって、それで、今、これから自分が死ぬまで同じようなことをやっていくのだ、と考えているわけですが、これはなんとも不思議な気持ちです。

一方では、僕は自分が哲学以外のことで暮らすことは想像もできません。それ以外のことにほとんどまったく興味を見いだせないからです。

(僕はこの辺は結構ニーチェに影響を受けていて、哲学者以外の人を蔑視する傾向があるというか、哲学以外のなにがおもしろいの?っていう気がします。それに、おもしろくないことをしてまで生きていたいとも思わない。高杉晋作が「おもしろきこともなき世をおもしろく」って言ってますが。)

でも他方では、21歳の時点で既に死ぬまで哲学をやるって確心を持っているなんて、なんて絶望的につまらないことなんだろう、という気もします。

なんてったって、死ぬまで哲学をするってことは、これから何年もずーっと、本を読んで、考えて、論文を書いて死ぬまで生きるってことですから。生活は単調で、新しい喜びもなく、孤独で、理解もされず、解決されることのない問題をひたすら考える。それだけ。

哲学というのはある根源的な意味で不毛な営みですから、これから死ぬまで哲学をするんだ、というのはほとんど人生の終りに等しいようにも感じます。そう考えると、なんともどうでもよい人生だったなぁ、と思います。何かを成し遂げたわけでもなく、成し遂げようとしたわけでもなく、特に苦しんだわけでもなく、胸を焦がすような人もいず、理由もなく、ただぼーっと過ごしてきただけでした。

まあ、それが僕の人生だ(c'est la vie, pour moi)と言ってしまえばそれだけの話ですが、時にはなんとも寂しくなるものです。力が抜けて、笑ってしまうような命。

posted by Yuuki at 13:26 | Comment(2) | TrackBack(0) | Journal/Gibberish (-Spr. 07)
Comments to this post
引用されている高杉晋作の言葉は、高杉時世の句でありますね。

"おもしろきこと"と感ずる事象が、己独りで感じれるモノも在れば、己独りでは感じられないモノも在る以上、Yuuki様が述べられている事が前者であるとするならば、人生まだまだ半分の「おもしろさ(つまらなさ)」を理解している段階なのではないかと私は思います。

哲学をこれからも『やる』と謂うYuuki様の其の今の『行動』自体が、既に大変意義の有るモノである以上(納得されないかもしれませんが、其の意志から『生命讃歌』を感じると謂う意味からです)ソレは決して絶望的な人生(死を絶望的であるモノだと捉えられているのなら、話は別ですが)などでは無く、最も人間が崇高になれる(なろうとする)為の、素晴らしい決断が若いうちから出来ている… 
私はそんな風にYuuki様が見えておりますし、実際、羨ましい。

私自身、哲学=人生と考えている部分が多分に有るからでしょうが、哲学が実体験の後付けの行為だと揶揄される事があったとしても、そも人間とは過去の経験と現在の行動で、将来を『予測』する事しか出来ない以上、人の根源的な部分を掘り下げてゆく哲学を以てして始めて、本当に "おもしろき" 事を人生に見い出せるのではないかと私は考えております。

そして、ソレは人として最も健全な『幸福を識る』為な行為なのではないでしょうか。


追記。
ご存じかも知れませんが、高杉の句には、野村望東尼による下の句がこう続きます。

「すみなすものは心なりけり」

と。


死ぬまで哲学を勉強する…… 
なんと真摯な姿勢か。(微笑

お邪魔いたしました。
Posted by きんぐかず at 04/21/2007 02:24
>きんぐかず
コメントありがとうございます。いつも身に余るお言葉をいただき、嬉しいような、恥ずかしいような気持ちです。以下のリプライは断片的ですが…。

独りでも感じ得る「おもしろきこと」と、独りでは感じ得ない「おもしろきこと」…この区別は興味深いと思います。というのも、ニーチェの「死ぬまで哲学をする」という“決断”が生の決定的な肯定(“生命讃歌”)であり得たのは、彼が後者、つまり共有されることではじめて見いだされる「おもしろきこと」を頑なに否定したからではないか、と思われるからです。

僕はニーチェのような力も意志も自分の中に持っていません。心のどこかに、「生」そのものが、自分一人では決して「おもしろきこと」足り得ないものである、という予感がある。この予感が果たして絶望なのか、それとも希望なのか、それはわかりませんが…。

ただ、ニーチェでさえも、自分自身の生の力を彼独りで支えきることは結局はできなかったのです。彼は、まるでガラスでできた荘厳な彫刻のように、粉々に崩れ落ちてしまった。

とにかく、僕の「死ぬまで…」という言い方には少し皮肉と諦観が混ざっています。「死ぬまで…」というのは、良く言えば「命の限り」ということですが、「死のうと決断するまで」ということでもあります。平たく言えば、明日自殺してしまうかもしれない、ということです。ある種のコミットメントが欠落している。

ただ、もちろんもう一方で、哲学が崇高なものであって、これに向き合うことなしでは、他の一切はくだらないものである、という気持ちもあります。これがポジティヴな確信なのか、無意識の自我の防衛なのか、それはわかりませんが。

詩人の西脇順三郎がこう書いています。「人間の存在の現実それ自身はつまらない。この根本的な偉大なつまらなさを感ずることが詩的動機である。」これはまったくその通りで、この“偉大なつまらなさ”を一度感じてしまったら、もう芸術をやるか哲学をやるか、どちらかしかないように思えるのです(そして、この意味では芸術と哲学は同じことです)。

野村望東尼の下の句は、ある意味では高杉晋作の上の句をtrivializeしてしまっているような気がします。間違ってはいないと思いますが、「心なりけり」と締められると、「要は気の持ちようだよ」というとても平凡なメッセージが幾分不注意に強調されすぎると思います。

「おもしろきこともなき世をおもしろく…」と、副詞的に、未完のままで終わるところにこの句の美しさがあるのではないでしょうか。アメリカでも非常に人気のある一茶の句に「露の世は露の世ながらさりながら」というのがありますが、同じことです。(ここにも存在の“偉大なつまらなさ”が詠われていますね。)

ただ、「すみなす」を「住みなす」ではなく、「澄み、成す」と読んでみたらどうでしょう。「おもしろきこともなき世をおもしろく 澄み成すものは心なりけり。」あえてこう“曲解”すると、上の句と下の句が不思議に乖離し、人間の心というものへの究極的に静かな諦観が浮かび上がってくるように思います。

わけのわからない、不可解で煩雑極まる「世」がある。そして、この混沌の中心にあってなお、「心」は澄み、それ自身を成して(あるいは為して)いる。それだけ。これは、美しい悲劇のような素敵なイメージです。哲学や芸術は、この境地への憧れから逃れ得ないのかもしれません。
Posted by Yuuki at 04/22/2007 20:23
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