僕は最近までクラシックの声楽というのがどうにも苦手で、歌曲を聴きはじめたのも大学に入ってからのことですし、宗教曲を含めた合唱曲の分野はまったく未開拓なのですが、最近エリック・ウィテカー(Eric Whitacre)というアメリカの若い現代作曲家を知りました。
オクタヴィオ・パスの「A Boy and a Girl」という詩に彼が作曲した作品を、大学の室内合唱団に所属している人が20世紀音楽(20M)のクラスで聴かせてくれたのが最初だったのですが、その後その合唱団のコンサートで同じ曲を改めて聴いて、あまりにキレイなハーモニーなので、これはもっと聴きたいな、と。
で、大学の図書館から『ア・カペラ作品集1991-2001』を借りて、最近よく聴いています。「A Boy and a Girl」は最近の作品(2002年?)なので収録されていませんが、このCDでは、E.E.カミングスの三つの詩に作曲した「three songs of faith」という作品と、人間が空を飛ぶための機械を夢見るダ・ヴィンチを描いた「Leonardo Dreams of His Flying Machine」という作品がお気に入り。
特に後者は圧倒的な想像力というか。まさか声が空を飛べるとは知りませんでした、というのが僕の感想です。
多くの人が協力して一つの音楽を創って演奏する、というのは本当に奇跡的なことなのですが、良い合唱はこのことを特に直接的に感じさせてくれます。
結局、音楽を演奏する、というのは、耳を澄ませて音を聴く、ということに他ならないのだな、と思います。自分の出している音、他の演奏者の出している音、作曲家の心でなっていたであろう音、演奏の前の沈黙の中に潜む音…これらすべてに注意深く耳を傾けること、それが音楽を演奏するということ。
高橋悠治氏がどこかで「ピアニストは二つの腕を持った機械ではない。ピアニストには二つの耳がある。」といったことを書いていますが、同じことがすべての演奏者に当てはまるでしょう。
そう考えると、僕は自分の耳の絶望的な悪さに愕然とします。音楽を本当の意味で聴いたことなんて、僕には数回しかない。音楽を聴く才能がないんです。ここ半年でよくわかりました。
だから、僕がギターやらピアノやらを弾いてみても、でたらめな音は出ても、音楽にはほど遠い。音楽につながる音を聴く、ということを知らないから、いくら指を動かしても練習にならない。このことがわかってから、最近は「楽器なにかやるの?」と人に尋ねられても、「いえ、別になにも。」と言うことにしています。
目を閉じるように簡単には耳を閉じることはできません。「音楽を聴く」という行為があまり能動的に意識されないのはおそらくこのためではないかと思います。絵画を鑑賞するのは難しいが、音楽は誰でも楽しめると思っている人があまりに多い。
本当は、「音楽を聴く」、もっと正確に言えば「音楽として音を聴く」ということは大変なことです。厳しく、難しく、集中力を要することなはずです。才能が必要なことです。それでこそ、音楽を聴くということにはある種の崇高な喜びがあるのです。
今日、多くの人の生活は「音楽」と呼ばれるもので飽和しています。あの「No music, No life」という非常に危険な考え方も蔓延している。武満徹は「私たちの耳は聞こえているか?」と問いかけましたが、沈黙の中にだけあるこの問いを拒むかのように、僕たちはイヤフォンをして喧騒に満ちた街を歩いています。
ただ、一つ希望があるとすれば、「音を聴くこと」を激しく強要することで、それがなんであるかを再認識させるような音楽がまだあるということです。ウィテカーの作品の最高の瞬間がそれですし、幸運なことに僕はそんな音楽に他にも幾つかこれまでの人生の中で出会うことができました。
僕にとって、そのような音楽を聴くことはいつも、深い孤独と恐怖に満ちた対峙であって、真っ白な焔で心身が灼き尽くされるような経験です。偉大なる深淵に、命が呑み込まれていく。音楽を聴くというのは、そういうことだと思います。
05/16/2007
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