言葉は行為である。(ca. 1945; p.125)言う、話す、伝える、ということを、言語によるコミュニケーションの三つの段階として区別することができる。それぞれの段階に特有の問題、難しさがあって、それらはことごとく決定的である。つまり、私が誰かになにかを伝えようというとき、そこには三重に障壁がある。あらゆる意志を打ち砕くような、途方もなく高く、重厚な壁。
ここでは「言う」(utter)という動詞を、考えていることをなんらかの形で表す、という広い意味で使う。考えが表されるのは音声によってでも、文字(記号)によってでも良い。ただ、話が複雑になるので、絵画的または音楽的な表現は除外する(記号のアイコニシティについての議論も、ここでは無視する)。
「言う」ことと「話す」(talk)ことの決定的な違いは、「けた(place)」の違いである。簡単に言えば、「言う」ことは一人でも可能だが、「話す」には二人必要であるということ。つまり、「Aが話す」というだけでは不十分で、「誰に(例えばBに)」ということが特定されなければいけない。自分以外誰もいない部屋では、なにかを「言う」ことはできても、なにかを「話す」ことはできない(もちろん、自分自身に話す場合を除いて)。
しかし、「話す」ことに必要な「聞き手」(コミュニケーションの対象)を定めるのは「話し手」の意図であって、「話す」段階においては「聞き手」そのものにはなんの要件もない。人間に話すことも、石に話すことも、また自分の記憶の中の対象に話すことも、同様に可能である。これに対して、「伝える」(tell)ということが成立するには、聞き手が話し手の「言った」ことを理解することが必要である。ここに「話す」ことと「伝える」ことの違いがある。聞き手が話し手をどの程度理解する必要があるか、という問題は決定的に重要だが、とりあえず傍に置いておくことにする。
最初に、「言う」ことに関わる問題を考える。一言でいえば、それは「言う」という行為より前の段階が存在するか、という問題である。直感的には、「考える」とか「感じる」とかいうことが正にそのような段階であるかのように思われる。何も言わなくても考えることはできるし、なにかを感じることもできる…ように思える。しかし、私が何を考えているのか、また何を感じたのかということは、それを言葉にすることによってしか表現されえない。
あるひとつの文章に対応する事実(いいかえれば、あるひとつの文章の翻訳である事実)は、まさにその文章を繰り返すことなしには、記述することができない。この場合に、言語の限界があらわれる。(1931; p.34)私たちは(特に幼い頃)、考えもしないし、感じることもない物体(例えば一本の木)に、思考や感情を誤って帰属してしまう(またはそのように話す)ことがある。これはつまり、考えているもの、感じているものと、そうでないものを明確に区別する術を、私たちは持っていない、ということを意味する。では、そもそも「考える」とか「感じる」ということを「行為」として措定する必要があるのだろうか。
じっさいわたしは、ペンで考える。なにしろ、手がなにを書いているのか、頭が知らないことが、しばしばなのだ。(1931; p.50)私は、言いたいことが言えないのか、それとも言いうることしか言えないのか。「言う」ことの問題は、実は「言う」ことに先立つ問題なのである。
次に、「話す」ことの問題はなにかといえば、それは他でもない、「聞き手」を同定(identify)してその人に向けて言葉を発する(address)という問題である。先に、「話す」という述語は、「話し手」と「聞き手」の二つを要求すると書いた。さらに、「聞き手」を定めるのは「話し手」の意図であって、石や雲、また形のないものでさえも「聞き手」として意図されうる、と書いた。
しかし、文字通り「聞く耳を持たない」対象物に言葉を投げかけている場合、「話す」という行為は「話し手」の主観においてのみ成立しているのであって、傍から見ればそれは単なる「独り言」に過ぎない。そして、言うまでもなく、「独り言」は「言う」ものであって、「話す」ものではない。
ある存在が適切な「聞き手」たりうるためには、ただ単に外部からの信号(音声または記号)を適切に処理できるということだけでは不十分である。「聞き手」には、その信号が、ある意図を持った「話し手」によって発信されたものとして認識することが求められる。さもなければ、私たちは「アイシテル」という無意味な「音」と「愛してる」という意味を持った「言葉」とを区別することができないからである。
言いあらわせないもの(つまり、わたしには秘密にみちたものに思われ、わたしには言いあらわすことができないこと)が、ひょっとすると、背景になっていて、そのおかげで、わたしの言いあらわしえたものが、意味をもつようになる。(1931; p.49)正常な聴覚を持って、言語を理解することのできる人間であれば、「聞き手」である(ことができる)、というのは重大な間違いである。実際、私たちには、私たちが話しかけている人(addressee)が、私たちの言葉を聞いているのか正確に判断することは不可能だろう。視線も、頷きも、応答でさえも、「聴取」の確固たる証拠になりえない。
カラオケで誰かが歌う。周りのものはリズムを取るように肩を動かすかもしれない。しかし、歌を聞いているものなど誰もいない。同様に、私はこの文章を書くことで何かを言っているのだろうが、それを「聞いている」人は少ないだろう(一人もいないかもしれない)。しばしば私たちは「言う」ことと「話す」ことを混同してしまう。これは「話す」ことの本質的な難しさ、危うさに対する防衛本能かもしれない。
わたしたちは、言語と戦っている。「話し手」でなければ、「聞き手」であることはできないだろうし、またその逆も然りだろう。ただ、問題を複雑にするのは、私たちは、話を聞く“ふり”をすることもできる、という事実である。
わたしたちは、言語と交戦中である。(1931; p.37)
最後に、「伝える」ということの問題に端的に触れるが、この問題が絶対的に解決不可能であることを最初に認識しなくてはならない。「伝える」というレヴェルは、文字通り私の「手に負えない」ものである。ここでは、上で既に述べた送信側の問題と、受信側の問題が複雑に絡み合っている。
わたしは、自分が表現したいことを、表現するとき、いつも、せいぜい「半分うまくゆくか、ゆかないか」である。いや、じっさいはそんなに多くもない。ことによると、十分の一ほどではないだろうか。にもかかわらず、なにがしかのことは言おうとしてはいるのだ。わたしの場合、書くということは、しばしば、「どもる」ということにすぎない。(1931; p.55)一方で、私には、私自身がなにを言っているのかさえ、明確な基準によって計測することができないように思える。それに加えて、他方では、(それがなんであれ)私の言ったことがどのように理解されるかを監視したり確認したりすることは、私にはもちろんできない。
「聞き手」の立場にたって考えてもよい(「話し手」と「聞き手」の関係には、シンメトリィとアシンメトリィが奇妙に共存しているように思われる)。誰かが私に向けて放った言葉を(端的であれ)理解した、という確信を持つ瞬間がある。しかし、この「確信」もまた、私が、今度は「話し手」として、対話者に「伝えなくては」ならない。すると、まったく同じ問題がそこに立ちはだかっている。
こう考えると、(言語による)コミュケーションの可能性は、ほとんど絶望的なものであるように感じられる。にも関わらず、私たちは、いともたやすく、互いにものを言い、話し、伝えて、毎日生活しているようにも思われる(もちろん、この印象が幻想に過ぎない、という仮説は、一度真剣に考慮される必要がある)。ただ、ここに、ある基本的な意味での信頼(trust)という不思議なものの存在を垣間みることができる。
確信をもって神を信じることができるのなら、他人の心も信じることができるのではないか。(1948; p.193)陳腐な言葉にすれば、この信頼とは日常を日常たらしめる非日常である。信じる者はそれを奇跡(miracle)と呼ぶだろう。
(上の引用はすべて、L.ヴィトゲンシュタイン、『反哲学的考察』[訳・丘澤静也、青土社、1981年]による。)