誰かを思いやるというのは、その人の心情を推し量って、その人の立場に立って物事を考える、ということだ。
和英辞書を引くと“considerate”だとか“thoughtful”といった訳が示されているが、「思いやりがある」というのはただ単に思慮深いということとはニュアンスが違うので、どうもしっくりこない。
和仏辞書の「思いやり」の項には直訳は載っておらず、「同情」の意味では « pitié »、« compassion »、また「親切・心遣い」の意味では « prévenance »、« charité » といった言葉が提案されている。
思いやりをもつということは、自分のすることを他人がどのように受け止めるかあらかじめ推測することだから、« prévenance »(pré = 前もって + venance = venir [来る]が名詞化されたもの)という言葉はなかなかいい。
ただ、英語とフランス語のどちらにおいても、人を思いやる心を持っている人の感受性(sensitivity)が妙に強調されてしまっている。一方、日本語の「思いやり」は「思い“遣”り」と書くわけだから、自分の心を相手に向かって「遣わす」、つまり送り出す、というアクティヴなイメージがある。
また、「思いやる」というのは誰か特定の人(あるいは特定のクラスに属する人々)の立場(standpoint)から物事を見ようとすることだから、これは「客観的に考える」ということとは決定的に違う。
少し難しい話になるが、自分には自分の見方というものがあり、また自分が他人を見ているように他人に自分が見られているということを認識しなければ、「思い遣り」を持つことはできない。これは、鏡に映っている姿が自分であることを理解することとよく似ている。
確かに、自己というものが確立してはじめて、いわば「他己」ともいうべき位置が自分の外側にあることが認識可能になるのである。少し逆説的だが、論理的でもある。
思いやりというのは、思ったよりも複雑である。
ところで、思いやりのある言葉で話すことは、非常に難しい。これは、私たちが言葉を使う時に、自分の心情を正確に表現することばかりに捕われてしまって、その言葉が誰に向かって送られているのか、どのように受け止められるのかということには注意が向かない、ということが要因であるように思われる。
07/24/2007
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