何が起こるかわからない、しかも2〜3時間で一発勝負のテストよりは、時間をかけて自分の書きたい事を書けるペーパの方がプレッシャは少ないと思うのですが、一本あたりのストレスはペーパの方が数段上です。
今学期も僕の貧弱な脳髄に加え、致命的な時間管理能力の欠落もあって、散々な目に遭いました。しかも自分の納得いくようなクオリティで仕上げられたのは一本だけ…少しでも期待して下さった教授陣には申し訳ない気持ちです。
それでも、このまま大学院なんかに入ってしまったら、少なくとも向こう6年間はとにかくものを書き続けなければいけないのですから、書くという行為についても真剣に考える必要があると思うのです。
後輩のH君は、僕は書く事が好きそうだから、論文が何本あっても大丈夫じゃないか、という趣旨の事をメールで言っていました。きっと、このブログでどうしようもない駄文を垂れ流しているのでそういう印象を与えてしまったのでしょう。
しかし、当然ながら、たとえ書く内容が同じようなテーマであっても、ブログの記事を書くのと論文を書くのとでは大違いです。一番の違いは、考えがまとまっているかどうか。
ブログの記事を書く時は、核となるアイディア(言いたい事)だけがワンフレーズかそれくらい頭の中にあって、そのままつれづれと書きながらその時々思いついたことで肉付けをしていく、というやり方。で、結局まとまりのないだらだら意味無し長文になってしまう、と。
対して、論文を書くときは、核となる主題に加えてある程度具体的な全体像までアウトラインという形で書き出してから本文に取りかかる、というのが普通です。
で、哲学の一番ジューシーなプロセスというのはやはり自分独りで問題を考えている段階であって、答えがでて、それを他人に伝わるように文章にまとめる、というのはある意味ではクライマックスの後に来る非本質的な段階に過ぎないような気がするのです。そして、これが僕にとって論文を実際に書くプロセスが苦痛に感じられる一つの大きな要因であると思われます。
飛行機を造る場合を引き合いに出してみます。僕の本当の仕事は頭の中で新しい飛行機をデザインすることであって、いってみればそれは僕の想像の世界で完結してしまうことなのです。それを設計図に清書することも、実際に部品を組み立てて飛行機を空に飛ばすことも、僕にとっては最終的にはどうでもいいことで、そういったことにはそれほど興味が持てないのです。
だから、論文を書き進めている時点で、既にそこで扱っている問題に関しては自分の中では一応決着がついてしまっているわけです。だから、論文が長くなればなるほど、説明するのが面倒になってきてしまう。
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ま、でもこんなことが偉そうに言えるのは本当に考える才能がある人だけのはずで、実際に僕が書いた論文は論理的にも詰めが甘く、アイディアはひからびていて、構造もエレガントでない、どうしようもないものばかりです。自分の頭ですべてを完結させることができるようになるのは(そんな時がいつか来るならば)、まだまだずっと先の話。
だから今は、書くことと考えることをいかに融合させるか、というのを追求すべきではないか、と思います。
実際、いわゆる“脱構築”というのは「読む」という行為と「哲学する」という行為を意図的に“confound”(困惑させる、混同する、打ち砕く、等)するという戦略のことを指している、と考えられます。となると、「書く」という行為と「哲学する」という行為を意図的に“con-found”(一緒に・築く/基礎付ける/鋳造する)することも可能であるはずです。
世間的に「哲学者」と呼ばれている人達では、ニーチェやキルケゴールがこれを実践していたと言えるかもしれません。また、そういえばヴィトゲンシュタインは『反哲学的断章』の中で次のように書いています。
「哲学というのは、そもそも文学として創作できるだけである」。わたしは、こう言うことによって、哲学にたいする自分の態度を要約したのではないかと思っている。また、次のようにも。
じっさいわたしは、ペンで考える。なにしろ、手がなにを書いているのか、頭が知らないことが、しばしばなのだ。
実際にペンを原稿用紙に走らせて論文を書く事はほとんどなくなった今でも、「書く」という動詞は隠喩的に使われてはいません。「書く」(それが「キーをタイプする」ということを意味していたとしても)ということは身体的な行為であり、頭の中では概念であったものを、眼前に文字の羅列として具現化させていくプロセスを指しています。
音楽をインプロヴァイズするように、哲学の論文を書く。それが僕の理想であるのかもしれません。「メロディを紡ぎ出す」とはよく言ったものです。なぜなら、「テクスト(text)」という言葉には語源的にテクスチュア、つまり織物という意味合いが含まれているのですから。
超現実主義者のアンドレ・ブルトンは、思考の速度は手が筆記する速度よりも速くはない、という命題を根拠に、自動記述という手法を開拓したのでした。しかし、書くことと考える事が本当の意味で融合している時、手を持たない考えには辿り着く事のできない速度でペンを動かす事ができるのではないか、と思います。
白紙をインクで染めていくのではなく、白紙にインクが導かれていく。そんな瞬間には、思考はまさに書かれた言葉によって概念の外側へ引っ張り出されているのです。つまり、哲学がそれ自身でありながら、絶えずそれ自身ではなくなっている(außer sich)ような状態。おお、これはハイデガーによる現存在(Da-sein)のエクスタティック(ecstatic)な構造の説明とそっくりじゃないか!
書くという行為さえも存在論的な問題に還元してしまう、ハイデガーかぶれの悪い癖。とりあえずここまで。