もちろん、伝えたい事があるなら言葉で伝えれば良いではないか、と言いたいのではまったくない。このような単純な意見には、次のような反論が返ってくるだろう。すなわち、言葉では言い表せないようななにかを表現、そして伝達することが音楽において初めて可能になるのである、と。
ところが、この「言葉では言い表せないようななにか」というのがやはり曲者である。もちろん、「それ」が何なのかを言葉に還元して説明することはできない。「なんとも言えない」とか「言葉にならない」といったあまり有益でない否定表現を使うか、便宜的に「真実」とか「言葉を超越した感情」とか言ってお茶を濁すしかない。
しかし、僕たちは何をもってこのような「語りえぬもの」が表現者から鑑賞者に「伝達された」と言うことができるだろう。音楽の後に何らかの変化が起きた、ということは言えるかもしれない。ただし、「それ」が何なのか、積極的に記述することはできない。「それ」はいかなる命題でも表現されないような「何か」だから。
そんな「何か」が人から人に「伝わる」ものである、と考える根拠は一体どこにあるのか?
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僕たちは音楽を、言葉では定立しえない極めてアモルファス(amorphous = 無定形の)な現象としてしか経験することができない。逆に考えれば、音楽という名状しがたい経験をどのような表現で(便宜的にせよ)指示するか、というのはある程度は恣意的にコントロールされうる問題である、ということだ。
それを「言葉にならない心の叫び」と呼ぶこともできるし、「神の恵みの御声」と呼ぶこともできる。そしてこのように、もともと言葉には還元できないような経験を無理矢理言葉にしてしまうと、言葉の意味が経験の直接性を覆い隠してしまう。僕たちは、これらの言葉が経験を指示するために用いられている便宜的な記号に過ぎないということをいとも容易く忘れてしまう。
これは、月を指差している人を見て、月に目を向けずにその人の指先ばかり見つめている愚か者の話と少し似ている。しかし、音楽の場合は、指示されている対象物そのものが、言語に還元できるような意味を拒むようなある特殊な経験なのである。「無」を指差すことができないように、音楽を言葉にすることもできない。
ところが、もし、ヴィトゲンシュタインが言ったように、言語の限界が僕たちの世界の限界であるならば、僕たちは皆、愚か者の宿命から逃れる事はできない。
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今考察してきたことをまとめて換言すれば、音楽をメッセージとして考える事は、一種のイデオロギーの始まりに他ならない、ということだ。音楽をイデオロギーとして利用することを否定するならば、音楽のメッセージ性も同時に拒まなければならない。
そして、音楽の“本質”がイデオロジカルなものでないとすれば、音楽はその“本質”において、メッセージなどではありえない、という結論になる。
実際、例えばモーツァルトの音楽は僕にいかなるメッセージも伝えない。モーツァルトはなんらかの目的(telos = message)を表現しようとして、その一手段として音楽を選んだのではない。僕の印象では、彼はただ彼の脳髄の中に聞こえくる音を純粋に聞き取っただけである。カントの文言を借りれば、そこには“音楽性”というpurposiveness(Zweckmässigkeit)はあっても、“メッセージ”というpurpose(Zweck)はないのである。
“Vom Herzen―Möge es wieder zu Herzen gehen (心より発するものは、願わくは再び心に向かわんことを)”という言葉を残したベートーヴェンでさえも、音楽をメッセージとして捉えていたとは考えにくい。なにより彼の孤独がそのことを示唆しているように思える。
“メッセージ”という言葉の孕む危険性を十分に認識した上で、音楽的経験を記述するためには、一体どうすればよいのだろう。
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ここで有効と思われるのは、ヴィトゲンシュタインが『論考』において示唆した“伝える(to tell)”ことと“見せる(to show)”こととの区別である。音楽は何かを伝えるものではない。僕たちはむしろ音楽が何を見せるかに注目すべきである。
音楽がそれ自身によって見せるもの、これをなお「メッセージ」と呼ぼうとするなら、それはそれで構わない。ただし、それは「メッセージなきメッセージ」に他ならない(デリダが晩年「宗教なき宗教(religion sans religion)」について語ったことを思い出そう)。
僕が思うに、音楽の本質に関わるところの“メッセージなきメッセージ”は、音楽のテクスチュアリティ(textuality)に注目する事で浮き彫りにすることができる。そして、言うまでもなく、音楽とテキスト性は、ハイデガーの言うようなオリジナルな時間性(die Temporalität)によって結びついている。
音楽のテクスチュアリティとは、極めて端的な隠喩を用いて表現すれば、「白紙以前の問題」である。こう考えた時興味深いのは、この「テクストに対する白紙以前」と「音に対する静寂」の関連であろう。ここに来て、『論考』の最終命題が新しい問題系の下に浮かび上がってくることになる。
Wovon man nicht sprechen kann, darueber muss man schweigen.初めて『論考』を読んだときから、僕はこの命題に奇妙な違和感を感じていた。なぜならば、この命題に至るまでのヴィトゲンシュタインの論理を考えると、彼はむしろ次のように言うべきではないかと考えられるからである。すなわち、「語りえない事については、人は見せることを望むしかない。」
(語りえないことについては人は沈黙せねばならない)
言うまでもなく、「見せる」ということは他者との関係を含蓄する行為である。存在論としての音楽のテクスチュアリティの問題の考察は、つまり、音楽を方向性のある時間的な行為として現象学的に分析することから始まらなければならないだろう。