(いかにしてピアノハンマーで哲学するか)

あけました。今年って子年だったんですね。
年頭にあたり、旧年中の出来事を振り返ったり、今年一年に向けて決意を表明したりする人が多く見られます。過ぎた一年を総括し、お世話になった人に感謝し、新しい一年を引き締まった気持ちで迎える、という目的なのでしょう。
そういう慣習が良いとか悪いとか言うつもりは別にありません。ただ、自分にはこの「節目」の時期に改めて挨拶をして言うことは何一つとしてないということです。
2007年、僕は一体何をしてきたのか、どんな一年だったのか、と自問すれば、別に何をしたというわけでもなければ、こんな一年だった、ということもない、という答えになるでしょう。波乱、激動、躍進、改革、ターニングポイント、ブレイクスルー、等々、表現は色々と思い浮かびますが、そのどれも的確ではありません。
これといったドラマのない一年でした。ドラマのないことがドラマであったわけでもありません。目も見えず、耳も聞こえず、ただ、一切は過ぎて行ったのです。
自分にとってはくだらない年だったとしても、家族や友人やお世話になった周りの人々に感謝の挨拶をすることは必要だ、という考えもあります。ところが、人に感謝をする、ということが一体どういうことなのか、僕にはいまいちわからなくなってしまったと感じます。
嬉しいとか悲しいとか、そういう事柄が主体性を持って現実的に感じられないのと同じで、ありがたい、という感覚も今の僕にとっては極めて有耶無耶なものです。
それでも、せめて今年の目標あるいは抱負を明確に掲げて、内容/核心(le fond)のある一年にしようという決意を表すべきだ、という考えもあります。ところが、目標や抱負といったものは、未来へ向けて、抽象的にせよなにかしらのゴールがあって初めて意味をなすもので、生きるということに関しての方向/意味(le sens)を持っていない僕にとってはリアリティに乏しい概念にすぎません。
20歳になった時には、自分の人生もだいたい折り返し地点を過ぎた、と感じたものですが、最近ではそういう距離感のようなものもなくなってきて、霧のような雪のような黄昏が視界に滲んでいるようです。それは空想の黄昏です。空想とは時間の多様体の統合であって、時間とは人間の存在の形式です。
だから、空想の黄昏は、僕という人間の黄昏。終わりのない終わりは始まることもなく始まっている。
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ヴィトゲンシュタインは、「わたしたちは、言語と戦っている。わたしたちは、言語と交戦中である」(『反哲学的断章』)と書きました。「交戦」というような積極的なアンガージュマン(engagement)ではないにせよ、僕もまた言語という病と闘っているのかもしれません。
簡単に言えば、それは意味の問題です。「意味」というのはとても不思議な言葉で、その意味は僕にはよくわかりません。
例えば、「I love you」という文の意味は、「I」という主語で指示されている人間が、「you」という目的語で指示されている人間に対して、「to love」という動詞で表されている関係にある、ということです。
このように、文字通りの意味を理解することは難しいことではないのに、僕たちはなお「あの人のいった“I love you”という言葉はどういう意味だったのだろう」と疑問に思うことができます。つまり、ここではこの文のある違うレヴェルでの“意味”が問われているのです。
単語と文法によって構成される“意味”に加えて、局面や文脈、そして発話者の意図によって構成されるような“意味”がある。後者には、「価値」という概念がいつのまにか紛れ込んでいます。
これら両方のレヴェルにおいて、どのようにして言語は意味を持つにいたるのか。僕の考えではこれが言語哲学の一つの根本問題であって、これに取り憑かれることが、言語という病に蝕まれる、ということです。
どうして僕は去年の自分の経験を有意義に振り返ることができないのか。それは、記憶という現象が言葉をもってのみ具現化できるものであり、この言葉がいかにして意味を持つことが可能なのか、僕にははっきりしていないからです。
どうして僕は感謝の気持ちを心から表現することができないのか。それは、感謝という感情が言葉をもってのみ具現化できるものであり、この言葉がいかにして意味を持つことが可能なのか、僕にははっきりしていないからです。
どうして僕は自分の未来へのテーマを主体的に持つことができないのか。それは、目標をもった構造が言葉をもってのみ具現化できるものであり、この言葉がいかにして意味を持つことが可能なのか、僕にははっきりしていないからです。
黄昏とは言葉と意味の関係の切断、乖離、崩壊、解消、消失です。ハイデガーの「言語は存在の家である(Die Sprache ist das Haus des Seins)」という言葉を考えると、黄昏とはやはり自己という存在を自己足らしめているものが失われていく風景なのです。
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ところで、病としての言語の症状がもっとも顕著に見られるのは他のどこでもなく哲学においてです。意味と言う病を治療する医師であるはずの哲学者こそ、最も深刻にこの病に冒されているのです。
いうまでもなくこれは、哲学者こそが上で述べた「言語の意味の問題」に最も直接的に対峙してきた人種であり、しかも彼らがこの対峙を言葉をもって表現しようとしてきたからです。
しかし、言語という病を病そのものによって克服することが果たして可能でしょうか? 僕たちはむしろ、言葉にかわってそれを超越するような哲学の道具を探すべきなのではないでしょうか。
これがニーチェが「Wie man mit dem hammer philosophiert」について語った時に問題になっていたテーマです。ハンマーにも色々な種類があって、大きな金槌もピアノのチューニングハンマーもハンマーです。ただここでは僕は特に後者に注目したい。
いかにしてピアノハンマーで哲学するか。それはいかにして哲学を“書く”ことを回避しつつ、哲学を“聴く”こと、あるいは哲学に“耳を傾けること”を学ぶか、という問題です。ここでの「聴く」という言葉は非常に複雑な意味を持っていて、それは“聴くこと”と“演奏する”ことと“作曲する”ことが最早分離不可能な状態にあるような行為を指します。
これが、僕が今最も興味を持っている問題系を端的に表したもの、と言うのは必ずしも適切ではないでしょう。ただ、今まで僕の考えてきたことの多くがこの方向に収束せんとするようなジェスチャを僕に見せている、というのは本当です。
霞む虚ろな黄昏に一筋のピアノ線。その響きの閃きを、聴け。
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