L'inspiration vient toujours, quand l'homme le veut, mais elle ne s'en va pas toujours, quand il le veut.F&R(信仰と理性)のクラスでヨハネス・クリマクスの『哲学的断片、あるいは哲学の断片』を読みました。ヨハネス・クリマクスというのはもちろんセーレン・キルケゴールの仮名の一つで、『哲学的断片』のクレジットは、正確には「ヨハネス・クリマクス著/S・キルケゴール編」となっています。
霊感は、“望めば”いつでもやってくるものだが、望んだ時にいつも去っていってはくれない。――シャルル・ボードレール『Fusées』XVII
本の主部の内容についての議論はまたの機会にゆずるとして、この記事ではまず「序文」に注目します。ここには、この本がただの“パンフレット”に過ぎないこと、その内容に読者が世界的・歴史的な重要性を見いだすようなことはあってはならないこと、さらにはクリマクスのような定収入もない精神の浮浪者は“意見を持つ”などという大それたこととは無縁であること、等が書かれています。
これらはすべて暗にヘーゲルを批判する発言ととることができますが、こうして痛快な皮肉を並べた後に、いきなり次のような一文がでてきます。
I can stake my own life, I can in all earnestness trifle with my own life――not with another's (8)こういう決定的な命題をさらりと忍ばせてしまうところにキルケゴールの圧倒的な文学的天性を感じます。上手く表現するのは難しいですが、ショパンの楽譜を鍵盤の前でポロポロと辿っていくだけでも感じられるような、極めてエレガントで洗練された天才の妙技があります。
僕には自分の命を賭けることしかできない――他の誰のものでもなく、自分自身の命をくそ真面目にあれこれいじくりまわしてみることしか。
さて、ヴィトゲンシュタインはキルケゴールを「19世紀最大の哲学者」と考えていたそうです。つまり、ヴィトゲンシュタインにとってはキルケゴールの方が例えばヘーゲルよりも偉大であった。これはなぜでしょう?
僕は、ひょっとしたらヴィトゲンシュタインはキルケゴールの文才に強い憧れと嫉妬を持っていたのではないかと思います。少なくとも、キルケゴールのように“哲学”を書くことのできない自分になにかしら引け目を感じていたのではないでしょうか。
多くの研究者が、キルケゴールとヴィトゲンシュタインとが哲学的に密接な関係にあることを指摘しています。例えば、上に引用した一節は、ヴィトゲンシュタインの『Vermische Bemerkungen』の次の一文を思い起こさせます。
Niemand kann einen Gedanken für mich denken, wie mir niemand als ich den Hut aufsetzen kann (2)キルケゴールの哲学に共鳴しながら、ヴィトゲンシュタインは自分ではそれを書き表せるだけのスタイルを持ち合わせてはいなかった。だから、唯一の“著作”である『論考』はあのような奇妙なスタイルで書かれなければならなかったし、『探求』は断片の寄せ集めにならざるをえなかった――そんな風に考えることもできるのではないでしょうか。
僕の帽子をかぶることは僕だけにしかできないように、誰かに僕のために考えを考えてもらうことはできない。
こうして見えてくるヴィトゲンシュタインのイメージは、言ってみれば「負け犬ニート」のようなものです。一方で、ヴィトゲンシュタインは、言葉の限界が世界の限界であると主張しました。しかし、その一方で、彼は、キルケゴールの著作がそのような「言語の限界」を超えたところにあるようななにかを“見せている”ことも痛感していた。
ここでいう語りえぬ「なにか」には、クリマクスによって「幸福な情熱(happy passion)」という名前が与えられています。「幸福な情熱」とは他でもない「信仰(faith)」のことです。ヴィトゲンシュタインの次の言葉は、この線で読んでみるのもおもしろいでしょう。
Mein Ideal ist eine gewisse Kühle. Ein Tempel, der den Leidenschaften als Umgebung dient, ohne in sie hineinzureden. (Ibid., 2)他にもヴィトゲンシュタインは、哲学は本当のところは詩的創作としてのみ可能である、とも述べています。これこそがまさに彼自身にはなしえなかったことで、それを自分でも完全に理解していたヴィトゲンシュタインは、結局来る日も来る日も死ぬことばかり考えていました。まさに負け犬ではありませんか。
僕の理想はある種の冷たさだ。情熱の舞台を提供しつつ、それに干渉することのない一つの寺院。
『論考』の序文に書かれている通り、ヴィトゲンシュタインは、ある意味では本当に「哲学」のすべての問題を解決したのです。ところが、彼自身、別の意味での「哲学」の問題はまったく未解決のまま残っていることを知っていた。だから、最初の意味の「哲学」と決別して田舎で小学校の教師になった後も、もう一つの「哲学」に苛まれて、上手く生きていくことができなかった。「哲学」はできず、かといって他の仕事は手につかず、ニートとしての気質充分です。
ヴィトゲンシュタインは、天才であったがゆえに自分自身の絶望的な無力感も一層強く感じていたのではないか、と思います。この「弱さ」が実は彼の(人間としての)魅力の一つであって、特に日本人はこういうのが好きなのではないでしょうか。ヴィトゲンシュタインの人気はどこか中原中也の人気と被る側面があるように感じます。
それでも、ヴィトゲンシュタインが稀代の知性と真摯に生きるが故の不安とを持ち合わせていた偉大な人間であることは疑いありません。それに比べて、負け犬ニートな上に頭も貧弱で、しかも心は怠惰に蝕まれている、最低な人間もこの世にはいるのです。そう、それは僕のことです…
(ところでヨハネス・クリマクスの「クリマクス(Climacus)」というのは英語でいう「Climber」で、つまり「よじ登る人」といったような意味です。世の中にはエヴェレストに何回も登る強者もいれば、公園の木にも登れないような貧弱な人もいますし、それどころか体を起こして外に出る気力さえ持ち合わせていない人もいるのです。)