確かに、いわゆる「文系の学問」が就活で評価されることを期待するのはナイーヴであるかもしれない、とK村君は認める。それでも、彼は自分のやってきたことを本気でやってきたということ、さらにはそうして得た思考の体系にかけがえのない意義があることを確信している。曰く、
ぼくは本気でやった。なぜなら、人文科学的な手続きでものを考えていくことは、ぼくの人生における大きな課題の一つだからだ。これは大学院に行くとか行かないとかそういうどうでもいいレベルの話ではない。このことははっきりと分かったし、そうだと自信を持って言える。ぼくはいつも適当なことを言いまくっている。しかし、申し訳ないけどこれは本気だ。書物を通じて世界のことを考えるというのはぼくの本質を構成している。そういう風になっている。さらにK村君はこう続ける。今度はこの言明を行動で証明しなければいけない、と。ところが、僕に言わせれば、上に引用したようなことを書くだけでも、もう既に十分にあっぱれな「行動」である。こんなに力強いことはなかなか言えない。本当に本気の人でないと、こういうことは書けない。
僕自身は、「本気」という情熱からは縁遠い人間である。だから、僕にはK村君のようなことは絶対に書けない、と思う。今までの人生を振り返ってみても、本気になったことは2、3回、合計で30時間くらいしかない(それらも本当に本気だったか、今となっては疑わしい)。僕は受験勉強もしたことがないし、就職活動もしたことがない。経済的な苦労を味わったこともないし、まともに働いたこともないし、五体は満足だし、大きな病気もしたこともない。生きることに関して本気になったためしがない。きっと本気で恋愛をしたこともないし、本気でなにかについて考えたこともない(僕にとって哲学とはつまり、本気で考えることを都合良く回避する言い訳に他ならない)。
昔は、「本気」ということがどこか恥ずかしく、馬鹿らしく、それに対して斜に構えていたということもあるかもしれない(俗にいう「中二病」である)。ところが最近では、そういう意識さえもない。「本気でやらなければ」ということは、言葉としては考えることができるが、この気持ちを本当に持つことがどういうことなのかは、果たして見当もつかない。しかも、そういう自分に対して焦りや引け目や恥ずかしさを感じる、ということでもない。本気でなんらかの行動を起こすことができれば、それはいいことだとは思うけれど、どうしてもそうできないことに関して「悩んでいる」とは言い難い。そんなに強い感情は持っていない。
卒業アルバムなんかによく載っている詩(というよりも訓言か)に、こんなのがある。
本気ですれば大抵の事ができるここで特におもしろいのは3行目である。逆に言えば、本気でやっていない者に助けの手をのばそうとする人はいない、ということである。ところで、友情とはまさにお互いを助けあおうとする感情によってなりたっている。つまり、なにも本気でできない人間には、友達もできない。さらに、アリストテレスは、独りで生きていくのは獣か神かのいずれかであって、人間ではない、と言っている。ということで、本気になれず、友達もいない者は、もはや人間でもない、ということだ。以上の議論から、僕には友達もいないし、できないし、そもそも僕は人間として失格である、ということが理解される(論理は破綻しているが、結論は間違っていない)。
本気ですれば何でもおもしろい
本気でしていると誰かが助けてくれる
「本気」の反対は、端的に言えば「怠惰」である。怠惰な者(僕)にとっては、本気になることはほとんど不可能に近いくらい難しい。なぜなら、本気になるためには、まず「本気になろう」という意志が必要であり、このような意志を持つためには、すでに本気になることができていなければいけないからである。
大学一年の時に、F教授がさらりと言った「情熱を持っていないのなら、死んでいるも同然(If you don't have a passion, you are dead)」という言葉は今でも鮮明に覚えている。あれから4年間、ついに僕は情熱とやらを持つにはいたらなかった。いや、生まれてからこれまで、そんなものは持ったことがなかった。情熱を持つということと、本気になるということは同じである。
情熱のない人間は死んでいるも同然、本気になれない人間は人間に非ず。僕は心のないゾンビのような、たんなる肉と骨と血と神経のかたまりである。そんなものからいつ意識が消えようと、まったくどうでもよいことである。
僕は卓子(テーブル)の上に、
ペンとインキと原稿用紙のほかなんにも載せないで、
毎日々々、いつまでもジッとしていた。
いや、そのほかにマッチと煙草と、
吸取紙くらゐはのつかつていた。
いや、時とするとビールを持つて来て、
飲んでゐることもあった。
戸外(そと)では蝉がミンミン鳴いた
風は岩にあたって、ひんやりしたのがよく吹き込んだ。
思ひなく、日なく月なく時は過ぎ、
とある朝、僕は死んでいた。
テーブルに載つかつてゐたわづかの品は、
やがて女中によって瞬く間に片付けられた。
――さつぱりとした。さつぱりとした。
(中原中也 「夏」)