Happiness is a warm gun,木曜日にイリノイ州の大学でまた銃乱射事件があった。犯人は散弾銃1丁と短銃3丁をもって講義中のホールに侵入、壇上にあがって無差別に学生を撃ち始めたという。5人が死亡、少なくとも16人が怪我を負い、犯人はその場で自殺した。
Happiness is a warm gun, mama
When I hold you in my arms
And I feel my finger on your trigger
I know nobody can do me no harm
Because happiness is a warm gun, mama . . .
幸せ、それはまだ温かい銃、
幸せ、それはまだ温かい銃、ああそうさ、
お前をこの手でしっかりと握りしめ、
引き金がこの指に触れるのを感じる時、
誰もこの俺を傷つけることなんてできない、
だって、幸せ、それはまだ温かい銃のことだから…―John Lennon, "Happiness is a Warm Gun"
アメリカでは今月ルイジアナ州の工科大学で女子学生が2人を射殺して自殺するという事件があったばかり。昨年のヴァージニア工科大学の事件もまだ記憶に新しい。
今回の犯人は元々ここの大学で社会学を専攻する修士課程の学生だったという。米国刑務所制度の確立と宗教の関連や、犯罪者の更正に関する理論など、司法社会に興味を持っていて、学部長から表彰されたこともある優秀な学生だった。
彼は何らかの病気を持っていて、そのために投薬治療をしていたのだが、事件の数週間前にこれをやめてから言動に異常な点が認められたと言う。
それでも、これほどまでに確信を持って学問にコミットしていた人間がこのような事件を起こした、ということにいささか驚いている。「何が起こっても変じゃない」というだけではなくて、「誰が何をやっても変じゃない」という時代になった。
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銃で人を撃つ。それはどんな感覚だろうか。
僕は、本物の銃を持ったこともないし、もちろん人を殺したこともない。銃という「道具」に関してリアリティが感じられない。ところがその一方で、日本でも警官は銃を携帯しているし、アメリカでは空港や大きな駅には武装した警備員がいるから、そういう場所で銃をみると、何か不思議な感覚におそわれる。
今あの人があの銃を抜いて、引き金を引けば、それですぐ、いとも簡単に人間が死んでしまう――このように、「一瞬にして訪れる死」というのは、わけがわからない。「命」に関して、自然に、直感的に理解していることが無理矢理ねじ曲げられるような感覚だ。
多くの人にとっては、「銃を撃つ」という感覚は、日常生活の中にはそれと比べられるようなものがまったくないような感覚である。このことが、銃を、包丁や鈍器など他の凶器とまったく質の異なるものにしているように思う。誰でも、包丁で指を切ってしまったり、頭を物にぶつけたりする。だから、刺殺や撲殺という行為には、日常生活にもアナローグ(相似物)がある。殺人が傷害の究極的な延長点にある限りにおいて、刺殺や撲殺というのは、日常生活においてそれがどういうものであるのか想像するきっかけが与えられている。
ところが、「銃殺」という行為は日常から完全に乖離してしまっている。それがどういうことなのか、多くの人は見当もつかないのである。エアガンを使ったサバイバル・ゲームやゲームセンタのガン・シューティングゲームなどはまさに「銃殺」の日常的なアナローグではないか、と考える人がいるだろうが、これは違う。なぜなら、これらの行為は「ゲーム」という前提のもとで成り立っているものであって、つまり本質的に「非日常」なものであるからである。サバイバル・ゲームやゲームセンタのガン・シューティングゲームをするとき、私たちは、レクリエーションのために「リアリティ」を括弧に入れる。つまり、故意に「非日常」をつくりだしている。何気ない「日常」には、「銃を撃つ」という行為に類するものはないのである。
犯人が侵入した時講義に参加していて、惨劇を逃げ延びた学生は、その経験を「シュール」という言葉で表した。「シュール(surreal)」というのは、現実を超越しているという意味である。銃は、非日常を日常に一瞬で貫通させる。
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現実や日常を超越している、ということはつまり、自然を超越している、ということである。自然を超越しているということを私たちは「超常」という言葉で表す。英語で「supernatural」というと、神様とか、幽霊とか、自然の法則では理解しえないような現象のことを指す。
銃を撃つ、という行為は自然を越えた行為である。つまり、それによって人間は自分を神と錯覚する。その「快楽」は、例えば麻薬によって引き起こされるそれとは比べ物にならないようなものだろう。
ジョン・レノンは、「温かい銃」を麻薬の注射針の喩えとして歌っている、と考えることができる(英語の「shot」は銃の一撃だけでなく、注射の一突き、お酒の一杯、また薬の一服なども意味する)。「まだ温かい銃」とはもちろん、撃ったばかりの銃である。言葉はシンプルだが、グリップを握りしめ、引き金に指が触れるという部分の描写は、どこか性行為を思わせる。まるで、銃が銃を撃つ人間を犯しているような印象を受ける。
引き金を引く、という行為はつまり、超自然な快楽の中で銃と一つになることである。
凶器と犯人が一体化してエクスタシーに達する一方で、銃を持つ人間と銃口が向けられた人間との間には、無限の距離がある。ある人に触れることなくその人を殺してしまえる、という意味でも、銃は他の多くの凶器とは異質なものである。
ある意味では、ここに銃という道具の一番の恐ろしさがある。銃は、それを手にした者を、銃口が向けられた者の体、命、そして眼差しから完全に切り離して、発砲というエクスタシーの中に閉じ込めてしまう。つまり、引き金を引く者は、他の人間の命というものから、完全に隔離されてしまっている。
だから、その行為において「誰もこの俺を傷つけることなんてできない」のは当然である。しかし、もちろん、この不可侵性は強さを意味しない。事実は全く逆で、銃を撃つ人間は、彼自身の究極的な孤独の弱さに閉じ込められている。「発射」の瞬間というのはこの絶対的な孤独が投影されて、反転してしまっている現象である。
だから、「銃を撃つ」という行為は、「爆発(explosion)」ではなくて、「内部破壊(implosion)」である。銃口が向けられた「他者」は、もはや「他者」足りえない幻にすぎない。この悲劇的な幻の中で、殺人者は、実は、自分自身に向けて引き金を引いているのだ。