02/17/2008

ピアノを見よう、聴こう、考えよう

先週の土曜日はCUSO(シャーロッツヴィル&ユニヴァーシティシンフォニーオーケストラ)の定演で、ブラームスの『ピアノ協奏曲第1番ニ短調』を聴きました。

ソロイストはAndrew Armstrongという若いピアニストでした。1993年のヴァン・クライバーン国際ピアノコンクールに最年少で参加、審査員特別賞を受賞、クライバーン本人に絶賛され、またデビューCDもラフマニノフのピアノソナタ第2番だということで、“ブラコン”にもきっと思い入れがあるだろうと思い、それなりに期待していましたが、それを裏切らない熱い演奏でした。

初演時には「ピアノのオブリガート付きの交響曲」と批判された作品ですが、まさにこの、ピアノとオケが真っ向からがっしり組み合うような関係がこの作品の魅力であり、ピアニストには10本の指で100人近いオケ(特にコントラバス、ホルン、ティンパニ等)と対等に渡りあう力が要求されます。

特に第一楽章では、燃えさかるような「ブラームスのトリル(オクターブを親指と薬指で弾きつつ薬指と小指でトリル)」や、第九を彷彿させる第一主題が再掲示される直前の猛るようなパッセージ、それから終盤のオケと一体になっての和音の連打など、とにかく熱く激しく(良い意味で)「どんがらがっしゃーん」といった感じの、迫力ある演奏でした。

Armstrongは鍵盤をわしづかみにするような男らしい弾き方で、強い部分では左足を横に引き気味にしてややつんのめるような体勢になり叩き付けるような打鍵の後、まるで痙攣するかのように全身でリリースしていました。グランドピアノが震えるかのようでした。(その割には)目立ったミスタッチも少なく、わかりやすくダイナミックな演奏でした(こういうシンプルな演奏効果にオーディエンスが喝采するのを見ると「お前らはどうせ音がでかけりゃなんでもいいんだろ」と思ってしまう自分がいます…)。

欲を言えば、第二楽章のアダージョでもうちょっとデリケートさが欲しかったかもしれません。それでもこの楽章は、夫ロベルトを亡くしたばかりのクララ・シューマンへのブラームスからの苦悩と愛のメッセージなのだ、と考えて聴くだけで泣けてきます(こんなことを書くとハンスリックは憤慨するでしょうが)。最初の弦の痛切なハーモニーも良いし、途中で木管に出るメロディー(特にクラ!)も切ないです。

これはブラームスの曲一般に言えることかもしれませんが、彼の作品の複雑かつ重厚な構築の魅力というのは録音では厚ぼったく聞こえてしまって伝わりにくい部分があると思います。このコンサートの後ルービンシュタイン/ライナー(シカゴ響)の演奏のCDを借りて聴いてみましたが、ヘッドフォンで大音量で聴いても迫力は今一でした。

* * *

そして今週の火曜日は一年近く楽しみにしていたピョートル・アンデルジェフスキのピアノリサイタル…のはずだったのですが、なんとアンデルジェフスキ氏が体調不良のためリサイタルをキャンセルするという、本当に残念なことになってしまいました。ぶっちゃけかなりへこみました。

代役として呼ばれたのはSimone Dinnersteinというピアニストで、演目もバッハの『ゴルトベルク変奏曲』に変更されました。モダンピアノでゴルトベルク…?、と、少し嫌な予感はしていたのですが、それが的中してしまい、なんともなにがやりたいのかよくわからない中途半端な演奏でした。

僕はピリオド楽器じゃなきゃダメ、という絶対主義者でもありませんし、「作曲家の意図」という概念に対してもやや懐疑的な思いを持っているのですが、『ゴルトベルク変奏曲』のテクスト(楽譜)そのものが二段鍵盤を要求している、というのは明らかだと思います(この点については昨年初夏に大井浩明さんのチェンバロ・リサイタルに行った時に理解しました)。これは、両手が交差する部分が頻出するという単純に物理的な事実だけではなくて、音楽そのものが二層のレイヤを前提にして書かれている、ということです。

というわけで、この曲をピアノで弾くというのは、それなりに特殊な解釈論的な信念の下で、何かピアノでしかできないようなことをやるのだ、という方向性抜きでは正当化できないのでは、と思います。この「解釈論的な信念」をどう受け取るかによって、ある演奏が「真にモダンな解釈」なのか「チェンバロが弾けないピアニストのいいわけ」なのか判断されます(グールド、ポゴレリチ、それから高橋悠治等の演奏はこの視点で聴けるはず)。

この意味で、既に書いた通り、Dinnersteinの演奏は、一体何がしたいのかよくわからないようなすっきりしないものでした。アリアは非常に遅めのテンポで非常にロマンティックに始まったので、そういう解釈なのかと思うと、メカニカルなパッセージは無機質に処理したり、全体的に静かにしっとりと聴かせるのかと思うとじゃかじゃか和音を連打したり、とにかく一貫性が感じられませんでした。後半の短調の変奏は美しい部分も多かったのですが…。

変奏間の「間」の取り方も奇妙で、別に大したことではないのかも知れませんが、前の変奏の一番最後の音をペダルでのばして途切れなく次の変奏に入る時もあれば、完全に音を切って水を飲むという場面もあったので、聴いている側としては集中しづらいというか、なんだか不自然な印象でした。リピートもしたりしなかったり、したらしたで装飾音やアゴーギクを変えたり変えなかったり…

彼女を擁護するわけではありませんが、ひょっとしたらピアノのコンディションが悪かったのかもしれません。実は一番最初のアリアのド頭の2音目(ソォ、ソー、のところ)が明らかにミスタッチ(音がほとんどでなかった)で、あれ?と思ったのですが、数小節弾いた後Dinnersteinは突然演奏を止め、「Sorry, but there's something wrong with the piano(ごめんなさい、ちょっとピアノがおかしいの)」と言って調律師を壇上に呼び、何か確認して、改めて演奏をはじめたのでした(調律師は一通り鍵盤を端から端までたどったものの特に作業はせず)。

何があったのかわかりませんが、もしかしたら、弱音ペダルを踏んだ時のタッチがおかしかったのではないか、と僕は思いました。その後もなんか強弱の付け方がしっくりこないよなぁ、と思う点は何回かあったので。でも、ピアノで弾くとどうしても『ゴルトベルク』は「うるさく」聞こえてしまうのかな、とも思います。

* * *

と、ピアノが弾けないばかりか音楽的感性もゼロに等しいような僕がこんなことを書いても説得力が全然ないのですが…。

「ピアノを見よう、聴こう、考えよう」と書きましたが、やはり一番大切なのは「ピアノに触れる」ということでしょう。ある意味ではピアノを触れること以外にピアノを聴いたり、考えたりすることはできないと思います。

ピアノ・リサイタルといえば、上でも言及した大井浩明氏のリサイタルが来週の火曜日に自由学園で行われるそうです。《モーツァルト後期ソナタ集成》ということです(詳しくは氏のブログ参照)。フォルテピアノを「見よう、聴こう、考えよう」という方は、ぜひ。僕は行けませんが、特にハ短調のソナタ(KV457)は聴きたかった…。

大井さんは今年の夏には全13回のベートーヴェン・シリーズも開始されるといことで、これは僕も聴きに行きたいと思ってます。自分が夏にはどうなってるのか見当もつきませんが…。

posted by Yuuki at 15:19 | Comment(0) | TrackBack(0) | On Art
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