このクラスで最近までフランソワ・ラブレーの『ガルガンチュワとパンタグリュエル(Gargantua and Pantagruel)』を読んでいました(この時代のフランス語は難しいので英訳ですが)。
ラブレーは元々は修道士兼医者で、その思想はルターやエラスムスなどのルネサンス人文主義に強く影響を受けていて、『ガルガンチュワとパンタグリュエル』は主に中世〜スコラ哲学における制度化、形骸化した神学と、腐敗した修道院の慣習を痛烈に批判する作品としても読めます。(ラブレーは体系的神学に関しては批判的なのに、形而上学的にはアリストテレス的な部分も多く見られるので、アクィナスをどう見ていたのか興味深いところですが、このクラスではそこに深く突っ込むことはできませんでした。)
…と書くとなんとも「お堅い」話に思われるかもしれませんが、『ガルガンチュワとパンタグリュエル』は一言でいえば酒と糞尿と笑いと博識に溢れた、あらゆる意味で途方も無い大長編の茶番です。ウィキペディアは「ガルガンチュワ、パンタグリュエルという巨人の一族を巡る荒唐無稽な物語」と説明しています。
具体的には、最も高貴な尻の拭き方に関する話や、パリの街全体がガルガンチュワの尿の洪水に沈んだ話、戦争で首がもげた仲間を数針縫ってよみがえらせる話(この仲間は息を吹き返すとそれまで訪れていた地獄の話をする)、物語の作者がパンタグリュエルの口の中の世界で4ヶ月間放浪する話、など。基本はスカトロ・グロテスク・ナンセンスなのですが、これらがすべて医学的に非常に細かい描写と古代・中世哲学に関する深遠な知識とによって書ききられているという…とにかくとんでもない話です。
ラブレーの思想に関してはミハイル・バフチンが非常に細かく考察していて、これがおもしろい。簡単にいうと、“カーニバル”というあらゆる日常的な価値が笑いによって反転される場では、排泄物と排泄器官は汚物であると同時に再生のシンボルでもあって、さらには人間の身体性と地球の物質性との繋がりを肯定するためのリンクでもある、ということです。
このように書くと明らかですが、「価値の反転」、「笑いと肯定」、「身体としての命」といったキーワードは極めてニーチェ的(あるいはツァラトゥストラ的)です。実際、ラブレーを意識して『ツァラトゥストラ』を、またツァラトゥストラを意識して『パンタグリュエル』を読んでみると、その親和性に驚かされます。
例えば、ラブレーは『ガルガンチュワ』の冒頭、読者に向けた短い詩の終わりに、「Le rire est le propre de l'homme(笑いとは人間自身である)」と書いており、ニーチェは『ツァラトゥストラ』の第3部で「we should call every truth false which was not accompanied by at least one laugh(一つの笑いも伴わない真実は偽りと呼ばれるべきである)」と書いています。
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ラブレーを一通り終えて、今日からモリエールの『町人貴族(Le Bourgeois Gentilhomme)』を勉強しはじめました。上流貴族に仲間入りしたいと願い、様々な作法を学ぼうとする成り上がりの中流階級商人ジュルダン氏の愚かさと無知を描いた作品です。
とりあえず最初の二幕を読んでみたのですが、かなりおもしろかったです。笑えます。特に第二幕四場。ここでは哲学の教師(今でいう家庭教師)がジュルダン氏に正しい発音の仕方を教えるのですが、これが絶妙にコミカル。単純な音のおもしろさと、ジュルダン氏の過剰なリアクションが滑稽なのです。
教師:“O”の音はあごを丸め、高い方と低い方、唇の両方の角を近づけて出します。O。ジュルダン氏はまた、憧れのドリメーヌ侯爵夫人に愛の告白をしたいと願っていて、彼女に何か書いて渡したい、と教師に相談します。
ジュルダン:お、お。まったくその通りだ! あー、えー、いー、おー、いー。まったくあっぱれ! いー、おー、いー、おー!
教:口が小さく丸く開いて、「O」という文字の形になるのです。
ジ:おー、おー、おー。ああ、先生のおっしゃる通り。あー! 何かを学ぶって、なんと美しいことだろう!
(II.iv. 87-95. 僕の訳)
教:それでは韻文で何かをお書きになりたいと?僕はこういう単純なのは結構好きなのですが。対話はさらに続きます。
ジ:いやいや、韻文ではない。
教:散文でもよろしいと?
ジ:いや、散文も韻文もいやだ。
教:どちらかでなければいけませんよ。
ジ:なんで?
教:なんで、って、当然でしょう、ジュルダンさん、文章には散文か韻文かのどちらかしかないんですから。
ジ:え、文章には散文か韻文かのどちらかしかないのかい?
教:そうです。散文でないものはすべて韻文、韻文でない物はすべて散文です。
ジ:じゃあ普通に喋っているときはどっちなんだい?
教:散文です。
ジ:なんと! じゃあ僕が「ニコル、私のスリッパを持ってきてくれ、それからナイトキャップも頼む」と言ったら、これは散文なのかい?
教:その通りです、ジュルダンさん。
ジ:信じられない! 40年間僕は学んだこともないのに知らないうちに散文を使っていたなんて!
ジ:手紙にはこう書きたいんだ。「美しい伯爵夫人、あなたの美しい瞳を見ると、私は愛情で死んでしまいそうです。」これをなんとかエレガントな方法で、素敵に仕上げたいのだが。実際に役者が演じてるところを想像すると…笑えますよねぇ?
教:それでは、彼女の瞳の炎があなたの心を灰になるまで灼き尽くしている、昼夜を問わず激しい切なさに襲われている、と書かれては…
ジ:いやいやいや、だめだ、そんなのは。今僕が言った通りのことだけでいいんだ。「美しい伯爵夫人、あなたの美しい瞳を見ると、私は愛情で死んでしまいそうです。」
教:少しは工夫をこらした方がいいと思いますが。
ジ:だめだと言っているだろう、手紙には僕が今言った通りの言葉を書くんだ、だけどそれを今の流行にあわせて、うまくアレンジしてほしい。先生にはこれらの言葉をどういった方法で書けるか、ちょっとだけでも教えてほしいんだ。
教:まず、ジョルダンさんのおっしゃった通りに書くことができます。「美しい伯爵夫人、あなたの美しい瞳を見ると、私は愛情で死んでしまいそうです。」または、こんな風にも。「愛情で死んでしまいそうです、私は、美しい伯爵夫人、あなたの美しい瞳を見ると。」または、こんな風にも。「あなたの美しい瞳を見ると、愛情で、美しい伯爵夫人、私は死んでしまいそうです。」または、こんな風にも。「死んでしまいそうです、あなたの美しい瞳を見ると、美しい伯爵夫人、私は愛情で。」または、こんな風にも。「あなたの美しい瞳を見ると、私は死んでしまいそう、美しい伯爵夫人、愛情で。」
ジ:それで、この中で結局どれが一番良いんだい?
教:あなたが最初におっしゃったものです。「美しい伯爵夫人、あなたの美しい瞳を見ると、私は愛情で死んでしまいそうです。」
ジ:ははあ、勉強したこともないのに、私は最初から一番良いやり方を思いついたらしい!. . .
(II.iv. 155-182. 僕の訳)
この部分を読んでいて僕が感じたのは、このほんのり知的におバカで、言葉遊び的な部分もあり、また台詞の効果音的な回し方で笑いを取るスタイルは、まさにラーメンズのコントのエッセンスではないか!ということです。実際、教師役に小林さん、ジュルダン役に片桐さんをあてはめて脳内再生してみると、かの有名な日本語レッスンのコントシリーズのようにしっくりきます。
このような笑いを完全に確立したモリエールが偉大なのか、このような古典的な手法を現代でも実践するラーメンズが偉大なのか、それともただ僕が最近ラーメンズのコントを観過ぎているだけなのか、いずれにせよ人間は何百年も同じようなことに笑っているということです。
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学問の分野では専門化が進んで、学際的な研究はどんどん困難になってきています。哲学者は音楽を聴いたりしないし、文学研究家は哲学を読まない時代になりました。これは単純に「憂うべき状況」というだけではすまされない、ある意味では危機感を感じるべき事態かも知れません。
ラブレーとニーチェをつなげる研究は誰かがやっているかもしれませんが、モリエールとラーメンズはどうだろう? おもしろいと思うのだけど…。