仕事というのはなんだかんだいって縁のようなもので回ってくるもので、いろいろな人のつながりがあって、母校の中学校の運動会の記録写真を撮るPTA広報のお手伝いをここ数年させていただいています。
今年は先週の日曜日が本番でした。それで、何度見てもこう思うのだけど、中学校の運動会はとても感動的です。みんな一生懸命に走って、協力して、応援して、泣いて、笑って。
僕自身日本の高校の「体育祭」というものを体験したことがないのでどうしてもやや偏向した意見になってしまうのですが、それでもやはり中学校生活の三年間における運動会のようなイヴェントには特別な価値がある、と考えたい。
というのは、人生の中でこの年頃というのは、物事について最も深く、激しく、真摯に思索する時期でありながら、特定の出来事に関しては幼い子ども独特の純粋さを持って没頭することがまだ可能な時期でもあるからです。上手く表現できないけれど。
つまり、中学校の頃っていうのは、例えば口では「運動会なんてくだらない」とか「めんどい」とか言うし、実際にそう思っている奴でも、周りの友達とやんややんやと放課後遅くまで残って練習したり準備をしたりしていくうちに、そういう「斜に構えた考え方」というのがいつの間にか括弧に入ってしまって、本番では無我夢中で短距離走を走っちゃったりする、という頃だと思われるのです。
この種の“make-believe”というか、カッコつけてためらう素振りをみせる隙も与えないようなストレートさ、純粋さ、瑞々しさ、というのは高校に入ると大部分失われてしまうように感じます。(直接関係ないけど、このことから、中学生の登校拒否と高校生の登校拒否では質が全く異なることがわかります。)
またこれがプロスポーツ選手の試合を観るのと、運動会を観るのとの違いでもあります。つまり、プロの選手にとってはそのスポーツをすることが自分の生活と直接に結びついているわけですが、普通の中学生はそういうことがない。別に障害物競走で一番になったところで、物質的な損得は無いし、もっといえば自分のクラスが勝とうが負けようが、高校入試に直接影響するわけでもない。
それなのに、みんな一生懸命競争し、演じる。それもみせかけだけじゃなくて、心の底から笑ったり、泣いたりしてしまうくらい。
それも自分のためではなくて、「みんな」のために。それもそういう意識もないまま。
でもそれこそが、「本気」っていうことで、本気でなにかをやるってことは、「自分のため」ということと「あの人のため」ということと「みんなのため」ということの区別がもはや不可能になる状態のことを指すのでしょう。
普通の仕事をしてて失敗したり成功したりして、泣いてしまうくらい悔しいこととか嬉しいことがあるか、っていう話。(仕事したことないのでわかりませんけど…。)
結局は本気でなにかをやっている人をみると感動するっていう単純なことですが。この“second naïveté”というか…「走る」ということそのものも、とても象徴的です。一生懸命走っている人は、自分より速く走ろう、つまり、未知の領域(自分の未来)に追いつこうとしているように僕には見える。
そういう風に人を動かしているものは、一体何なのか? という問いを言葉にしてしまうとその途端に、それまで確実に実体のあった答えは蒸発して消えてしまう。そしてそれと一緒に、笑いも、涙も、怒りも、喜びも、ね。
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06/05/2008
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